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海民と天皇

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新天皇の即位の儀式が行われた。
私は天皇制についてはこれを支持する立場をとっている。
その理路は『街場の天皇論』において述べたので、ここでは繰り返さない。
新天皇について私は「網野史学」の系譜に連なる人だと思っている。異論のある方もいると思うけれど、私はそう思っている。

日本がそのような批評的知性を備えた天皇を「国民統合の象徴」として得たことを私は例外的幸運だと思っている。
即位への祝意を込めて、「街場の天皇論」に書き下ろした一文をブログに採録する。

海民と天皇

■はじめに

 天皇論について書き溜めたものを一冊の本にまとめることになって、その「ボーナストラック」として「海民と天皇」という書き下ろし論考を添付することにした。これまで折に触れて書いたり話したりしてきた話なので、「その話はもう何度も聞いた」と閉口する人もいると思うが、ご海容願いたい。さしたる史料的な根拠のない、妄想に類する思弁であるが、私がこの話をなかなか止められないのは、これまで誰からも効果的な反論を受けたことがないからである。どの分野の人と話しても、話をすると「なるほどね。そういうことってあるかも知れない(笑)」でにこやかに終わり、「ふざけたことを言うな」と気色ばむ人にはまだ出会ったことがない。もちろん堅気の歴史学者や宗教学者は「まともに取り合うだけ時間の無駄」だと思って静かにスルーされているのかも知れないが。

 とはいえ、一般論として申し上げるならば、思弁、必ずしも軽んずべきではない。フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も引用されたテクストの一つだが、そこで「反復強迫」についての記述を始める時に、フロイトは「次に述べることは思弁である」と断り書きをしている。フロイトの場合は、一つのアイディアを、それがどれほど反社会的・非常識的な結論を導き出すとしても、最後まで論理的に突き詰めてみる構えのことを「思弁」と呼んだのであるが、私の場合の思弁はそれとは違う。私の思弁は一見するとまったく無関係に見えることがらの間に何らかの共通点を発見してしまうことである。そういう学術的方法を意図的に採用しているわけではなくて、気が付くと「発見してしまう」のである。

「あ、これって、あれじゃない。」

 数学者のポアンカレによると、

洞察とは「長いあいだ知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた他の事実のあいだに、思ってもみなかった共通点をわれわれに示してくれる」
働きのことだそうである。そして、二つの事実が無関係であればあるほど、その洞察のもたらす知的果実は豊かなものになるという(アントニオ・R・ダマシオ、『デカルトの誤り』、田中三彦訳、ちくま学芸文庫、2010年、294頁)

 私の「海民と天皇」というのも、遠く離れたところから引っ張ってきた、相互にまったく無関係に見えるものを私が直感的に関連づけたものである。「これって、あれ?」的直感で関連づけられた事項がずらずらと羅列されているだけで何の体系的記述もなしていない。けれども、そうやって羅列されたリストをじっと見ていると、そこにある種のパターンの反復が見えてくる。少なくとも私には見える。以下、それについて書きたいと思う。

■海部と飼部

 私に最初の「これって、あれ?」的直感をもたらしたのは梅原猛の『海人と天皇』という本である。その中に『魏志倭人伝』についてこんなことが書かれていた。

「中国から見た倭は、たしかに文身をし、その王は女性シャーマンである-それは文明国、中国から見れば野蛮の国の象徴である。」(梅原猛、『海人と天皇 日本とは何か(上)』、朝日文庫、2011年、92頁)
 高校の日本史の教科書にでも書いてありそうな何ということもない一文だが、その「文身」のところに注がついていた。たまたまそこを見ると、そこにはこう書かれていた。少し長いがそのまま引く。
「イレズミについて、『日本書紀』履中天皇の条に次のような記述がある。『即日に黥む。此に因りて、時人、阿曇目と曰ふ』(元年四月)。『是より先に、飼部の黥、皆差えず』(五年九月)。『黥』とは眼の縁のイレズミ、『阿曇目』から海部の風習、『飼部』から職能の民の風習が想像される。『眼の縁のイレズミ』は日本独特のものといわれる。『目』のもつ魔力をより強化するための呪術的作法であろう。海部は航海術を、飼部は馬術をもって天皇に仕えた。黥の記述は『神武紀』にも見える。」(同書、110頁)
 文身や黥刑や阿曇氏のことはとりあえず脇に措いておく。私が目を見開いたのは「海部は航海術を、飼部は馬術をもって天皇に仕えた」という一文であった。そうか、そうだったのか。なるほど、これですべてが繋がったと私は感動に震えたことを覚えている。もちろん、こんな説明では皆さんには何もわからないだろう。いったい何がどう繋がったのか、その話をこれからする。

 古代から中世にかけて、ある種の特異な職能をもつ部民たちは天皇に仕えて、その保護を受けていた。馬飼部、犬飼部、鳥飼部などはその名から動物の飼育担当だったことがわかるし、錦織部、麻績部は織物の、土師部、須恵部は埴輪や土器の作成にかかわったことが知れる。同じように、海部はもともと潜水と漁を特技とし、海産物を「贄」として天皇・朝廷に貢納した職能民であった。海部について少しだけ解説しておく。「解説はいいよ」という人はここは飛ばして、次の段落に進んでもらっても構わない。

『古事記』には伊邪那岐伊邪那美二神が「国生み」によって大八島ほかの島々を生んだとある。一通り生み終えたのちに、「海神、名は大綿津見神を生みまし」とある。これが海神という名詞の初出である。

 その後、伊邪那岐が黄泉国から戻って、筑紫の日向の橘小門の阿波岐原で禊ぎ祓いしたときにも多くの神々が生まれるが、その中に、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三柱の名がある。「此の三柱は、阿曇連が祖神といつく神なり」とされている。これが海民の祖神である。

 永留久恵によれば、

「このワタツミ三神を伊弉諾尊の禊祓によって生じた神としたのは、海神を倭王朝の王権神話のなかに取り込んだもので、それは王権が成立した以後の作である。すなわち海神を祖とする部族が倭王朝に服属したことにより、その祖神伝承を王権神話の系譜に組み入れたもの」
である。(『海童と天童』、大和書房、2001年、92-3頁)

 伊邪那岐が海神を「生んだ」という話は、倭王朝が海神を祖神とする部族を服属させて、彼らが信じる神を、倭王朝の神統のうちにローカルな神として位置付けたことの神話的な表現である。事実、「日本書紀」には、応神天皇の時に、各地の海人が抗命したのを鎮圧した功によって、阿曇大浜が「海人之宰」(海人の統率者)に任ぜられたとある。この人が阿曇連の祖である。おそらく、それまでは王権に服属していなかった海人たちを、阿曇大浜が海人の反乱を契機に実力で抑え込み、部民組織に再編して、天皇に仕えたという歴史的事件があったのであろう。

 だが、こんな古代史トリビアは忘れて頂いて構わない。私が言いたいのは、海部とは海産物を贄として上納し、また航海術という技術を以て天皇に仕えたということ、それだけである。

 航海術とは自由に移動する技術である。だから、「自由に移動する技術を以て主に仕える」というセンテンスには本質的には背理である。「主に仕える」というのは「自由を失う」ということだからである。

 海洋であれ、河川であれ、湖沼であれ、もともとは無主の場である。水は分割することも所有することもできないし、境界線を引くこともできない。海民たちはこの無主の空間を棲家とした。だから、海民を服属させた時に権力者が手に入れたのは、海民たちの「どこへでも立ち去ることができる能力」そのものだったということになる。

 ヘーゲルによれば、権力を持つ者が何より願うのは、他者が自発的に自分に服属することである。その他者が自由であればあるほど、その者が自分に服属しているという事実がもたらす全能感は深まる。

 天皇は多くの部民たちを抱え込んでいたけれど、その中にあって、「ここから自由に立ち去る能力を以て天皇に仕える」部民は海民だけであった。それゆえ海民は両義的な存在たらざるを得ない。というのは、海民は自由であり、かつ権力に服さないがゆえに権力者の支配欲望を喚起するわけだが、完全に支配された海民は自由でも独立的でもなくなり、それを彼らを支配していることは権力者にもう全能感や愉悦をもたらさないからである。だから、海民は自由でありかつ服属しているという両義的なありようを求められる。その両義性こそ日本社会における海民性の際立った特徴ではないかと私は考えている。

■源平合戦:陸と海のコスモロジー

 海部の文身の風習を紹介した注記の中で、梅原猛は海部と飼部を対比的に紹介した。私が胸を衝かれたのは、海部と二項的に対比され得る部民がいて、それが飼部だということであった。

 海部は航海術を以て天皇に仕えた。それは言い換えると、水と風の自然エネルギーを制御する技術によって天皇に仕えたということである。では、飼部は何を以て仕えたのか。「馬術を以て」と梅原は書いている。それは野生獣の自然エネルギーを制御する技術ということである。海部と飼部はいずれも野生のエネルギーを人間にとって有用な力に変換する技術によって天皇に仕えたのである。

 とすると、この職能民たちの間で、「どちらがエネルギー制御技術において卓越しているか?」という優劣をめぐる問いが前景化したということはあって不思議はない。ふと、そう考えた。そして、そう考えた時に「なるほど、源平合戦というのはこのことだったのか」とすとんと腑に落ちたのである。この話は本書中の「世阿弥の身体論」で少しだけ触れたが、それについてもう少し詳しく書く。

 平安貴族政治が終わる頃に二つの巨大な政治勢力が地方から中央へ進出した。

 一方は平家である。西国の沿海部に所領を展開し、海民たちをまとめ、清盛の父忠盛の代に伊勢に拠って、軍功を上げて、宮中に勢力を広げた。平清盛は保元平治の乱を経て、独裁的権力者となり、貴族たちの反対を押し切って福原遷都を挙行し、大輪田泊を拠点に東シナ海全域に広がる一大海洋王国を構想した。朝廷内に理解者の少なかった(たぶんほとんどいなかった)この海民的構想を実現するために清盛はきびしく異論を封じた。そのことに不満を抱いた人々が平家追討の主力を「もう一つの野生エネルギー制御者」である源氏に求めたのは選択としては合理的である。

 源氏は東国内陸に拠点を展開し、馬を牧し、騎乗と騎射の妙技によって知られた職能民である。これから日本が海洋王国となり、航海術に優れたものたちに優先的に政治的・経済的資源が分配されるという未来は源氏にとっては受け入れがたいものであった。『平家物語』における源平の戦いが図像的には「沖には平家の船、陸には源氏の騎馬武者」という対比的な図像になっているのは、それが海民と陸の民のコスモロジカルな対決だったからである。

 源氏が野生獣のエネルギー制御に長じていたことは、『平家物語』が詳しく伝えている。鵯越では馬で崖を駆け下り、屋島の戦いでは馬で浅瀬を渡り、倶利伽羅峠では数百頭の牛を放って平家を潰走させた。源氏の武者たちはもっぱら騎乗と騎射の技術によって平家を圧倒しようとした。その技術によってのみ平家と戦おうとしたという偏りに源平合戦の隠された構造が露出する。

 源平合戦の中のよく知られたエピソードに「逆櫓」がある。平家追討の緒戦に当たる海戦で梶原景時は「逆櫓」という船の舳と艫のどちらにも櫓がついた船を用いることを提案した。そのような機動性の高い軍船を使って平家を攻めることの利を景時は説いた。戦術的にはごく合理的な提案である。だが、これを義経は退けた。「もとよりにげまうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門出のあしさよ(はじめから逃げる準備をするのはよろしからず。縁起が悪い)」。やりたければ、お前は逆櫓でもなんでも好きなだけつければよろしい。私はふつうの櫓で行くと義経は言い放って、万座の前で景時の面目を潰した。

 なぜ義経は操船の利を拒んだのか。それは、義経がこの戦が単なる政治的ヘゲモニーの争奪戦ではなく、野生のエネルギーを制御する技術を有する職能民の間の戦いであり、それゆえ相手の技術を借りて勝ったのでは意味がないと考えていたからである。義経はコスモロジカルなスケールで源平合戦をとらえており、景時は目先の局地戦の勝利にこだわり、そもそもこれが何のための戦いであるのかを忘れていた。そして、飼部としての職能の本義を忘れたことを義経に指摘されて、義経を殺さなければ癒やされないほどの屈辱を覚えたのである。

 壇ノ浦で最終的に源氏は勝利を収めるわけだが、よく見るとわかるが、この最終的勝利をもたらしたのは、渡辺水軍、河野水軍、熊野水軍など平家に従わなかった海民たちの操船技術と、平家の海軍戦力の中心にいた阿波水軍の裏切りであった。最終的に源平合戦の帰趨を決したのは艦船数と操船技術の巧拙だったのである。この最終局面には飼部の騎乗騎射の技術はもはやかかわっていない。『平家物語』の壇ノ浦の合戦が平家の「死に方」についての記述に満たされ、源氏の「勝ち方」について叙することがきわめて少ないのはおそらくそのせいである。だから、源氏はこの勝利を心から祝う気持ちにはなれなかったのではないかと私は思う。

■陸獣と海獣

  源平合戦は海部・飼部という二つの職能民がそれぞれの自然エネルギー制御技術の優劣を競った戦いであったというのが私の第一の仮説である。これは別の言い方で言うと、平安時代末に、日本人は「陸国」を志向するのか「海国」を志向するのか、その岐路に立ったということである。その時、列島住民はその二つの道のどちらを取るべきか逡巡した。これは世界史的にはかなり例外的なことのように思われる。というのは、カール・シュミットによれば、本来「大地の民」と「海洋の民」は陸棲の動物と魚類ほどに別の生き物だからである。

「海洋民族は一度も大地に足を踏まえたことがなく、大陸については、それが彼らの純粋な海洋生活の限界であるという以外にはなにも知ろうとしなかった。(...)かれらの全生活、その観念世界および言語は海に関連していた。かれらには、大地から獲得されたわれわれの空間と時間についての観念は無縁であり、理解しえぬものであった。それは、逆にわれわれ陸の人間にとって、あの純粋な海の人間の世界がほとんど理解することのできない別世界であるのとまったく同じなのである。」(カール・シュミット、『陸と海と 世界史的一考察』、生松敬三・前野光弘訳、慈学社、2006年、11-12頁)

 シュミットはアテナイから説き起こして、ヴェネチア、オランダ、イギリスといった海洋国家がいかにして大陸国家を圧倒して、世界史的なパワーとなり得たのかを記述した。そして、19世紀のイギリスとロシアの緊張関係がしばしば「鯨と熊」の戦いで図像化されたことを引いた後に、

「世界史は巨大な鯨、リヴァイアサンと、同じく強大な陸の野獣で、雄牛あるいは象として考えられたビヒモスとの間の戦いである。」(同書、18頁)
と書いている。

 世界史は陸の国と海の国、陸獣ビヒモスと海獣リヴァイアサンの間の戦いの歴史であるというのがシュミットの説である。

「陸と海」であれ、「定住民と遊牧民」であれ、「アーリア人とセム人」であれ、「ブルジョワとプロレタリア」であれ、何かと何かの根本的な対立が世界史を駆動しているという話型は、少なくともヨーロッパでは、それなしでは思考することができないほどに根源的な世界理解の枠組みである。シュミットの陸と海もその変奏の一つである。

 いくつかの二項対立のうちでとりわけシュミットの「陸と海」という対立図式に私が惹かれるのは、日本の場合は、同一集団の内部にその二つの性格が拮抗しているように見えるからである。列島住民たちは、自分たちが陸の国として立つべきか海の国として立つべきか、それを確定しかねていた。だから、ある時は海洋国家を志向し、あるときは陸の国に閉じこもろうとする。日本は文字通り「海のものとも山のものともつかぬ」両棲類性の国家なのである。これが私の第二の仮説である。

■日本社会の海民性

 網野善彦は、日本人が自らの社会を

「農業社会」、「稲作社会」と考え、古代以来、江戸時代までは「農業国」であったという認識を持っているのは「事実と異なる虚構であり、そこから描かれる日本社会像は大きな偏りを持っているといわなくてはならない」と断じている。(網野善彦、『海民と日本社会』、新人物往来社、1998年、8-9頁)

「最も顕著、かつ重大なのは、現実の生活がさまざまな面で海に大きく依存しているにも拘らず、日本人が自らを専ら農業を主とする『民族』と思いこみ、自らの歴史と社会の中での海の役割について、ほとんど自覚してこなかったという点にある。」(同書、9頁、強調は内田)

 なぜ日本人は自分たちは発生的には定住農民であるという誤った自己認識を抱くのか、なぜ自らの文化と社会における海民性に無自覚ないし抑圧的であるのか。この興味深い事実について、網野は次のような説明を試みている。

「中国大陸の国制―律令を受け入れて確立した古代国家、『日本国』は、六歳以上の全人民に田地を班給し、課税の基礎としたのであり、すでに百姓を稲作農民としようとする志向を強烈に持っていた。なぜこのような制度が採用されたかは、日本の社会、文化、歴史を考える上での根本的な大問題であるが、当面、この国家の支配層の基盤とした共同体のなかで、水田が祭祀とも深く結びついた公的な意味を持つ地種であったことにその理由を求める程度にとどめざるをえない。」(同書、16頁)

 海民性が権力者によって排斥された理由はよくわからない。網野はそう書いている。とりあえずそれは自然環境のせいでも、産業構造のせいでもなかった。わかっているのは、稲作祭祀を列島に持ち込んだ集団が、水田を土地のありようの基本とみなし、「百姓」(本義はさまざまな姓をもつ人々、一般庶人)を農夫に限定的に解釈するという心的傾向を持っていたということだけである。

 日本を「陸の国」とみなし、そこに住む民の本来的なありようを定住的な農夫に限定しようとするのは宗教的あるいは観念的なこだわり、一個の民族誌的偏見であり、必ずしも生活の実相を映し出していない。そう考えると、歴史的条件の変動によって、不意に民族の海民性が社会の表層に露出してくるという事態が説明できる。日本列島住民の海民性はそのつどの歴史的条件によって、間歇的に発現する。そういうことになる。

 平清盛の政体が強い海民性を持っていたことは先に述べた。源氏はそれを滅ぼして、平家の海洋王国構想はいったんは水泡に帰した。だが、執権となった北条氏は「海上交通の支配」に積極的だった(同書、32頁)。これは海上交通に積極的だったというより、海上交通の支配に積極的だったと読むべきだろう。北条氏はそれまで京都の王朝の統治下にあった西日本、九州の交通路を掌握し、北では津軽・下北から北海道に勢力を持つ安藤氏を取り込み、南方では永良部島・喜界島・徳之島を配下の千竈氏の所領として、列島全域の交易を一手に収めた。元寇という国難的事態を考えれば、北条氏の得宗独裁体制が列島全域の海民支配を優先的にめざしたのは当然のことである。

 だが、室町時代に入ると中央政府のハードパワーが落ち、有力な守護大名たちが幕府の統制を離れて自由に交易活動を展開するようになると、海民たちが自由に活動する時代が到来する。人々は国家の軛から解き放たれてアジア全域に雄飛するようになる。山田長政はシャムに渡って政府高官となった。朱印貿易で巨富をなした呂宋助左衛門の終の棲家はカンボジアだった。高山右近は家康のキリシタン国外追放令を受けてフィリピンに去り、その「殉教者」的な死はマニラ全市のクリスチャンによって悼まれた。これらの「グローバル」な活動家たちの中にあって、海洋的な構想において際立つのは豊臣秀吉である。秀吉の朝鮮出兵は意図がわからないという人が多いが、秀吉は別に朝鮮半島に用があったわけではない。半島経由で明王朝を攻め滅ぼし、後陽成天皇を中華皇帝として北京に迎え、親王のうちの誰かを日本の天皇にする計画だったのである。秀吉自身は寧波に拠点を置いて、東シナ海、南シナ海を睥睨する一大海洋帝国を構想していた。典型的に海民的な構想だが、間歇的に発現する海民的性格というものを理解しない人たちの眼には単なる狂気としか映らなかったであろう。

 秀吉の海上帝国構想が頓挫した後、江戸時代という長い「陸の国」の時代が来る。この時代の海民たちはそれでも漁労、海産物商、木材・薪炭商、廻船業者として体制内的な商業実務に携わっていた。金融、経営、雇用などにかかわる商業文化の洗練に海民たちは深く与っている。幕末に欧米列強が日本に開国を迫った時の日本が経済社会として熟成していたことに網野は海民の貢献を見ている。(同書、42頁)

「ビヒモスの時代」には「リヴァイアサン」的な活動は異端として斥けられるが、「陸の国」の国家経営が行き詰まると、再び「海の国」に希望を見出す人たちが出てくる。例えば、幕末に神戸海軍操練所を開いた勝海舟も、そこで勝に航海術を学び、亀山社中という私設海軍かつ商社というきわめて海民的な組織を創建した坂本龍馬もそうである。勝が海軍操練所・海軍塾(塾頭は龍馬)を開いたのは、清盛が日宋貿易の拠点と定めた大輪田泊の跡地である。これが偶然の一致であるはずがない。

 そして、明治以後、また揺れ戻しがあって、日本は「陸の国」となる。外形的には艦船を外洋に送って、領土を海外に広げたわけだが、これを日本社会の海民性の発露と見ることはできない。すべての変数を単一の方程式で制御しようとする中央集権的な政体は非海民的である。そして、そのことが最終的に日本に致命的な敗戦を呼び込む。網野は明治以後の非海民的な70年をむしろ日本歴史上では例外的な時期とみなしている。

「海を国境とし、列島を『島国』にしようとしたのは、国家、支配者であった。とくに帝国への志向を強く持った古代の『律令国家』百年と、敗戦までの近代国家七十年は、『日本国』千三百年の歴史の中で、きわめて特異な時期であったといわなくてはならない。

 朝鮮半島をはじめ周辺諸地域に対する侵略的・抑圧的な姿勢、そこに根を持つ『異国人』に対する差別は、この時期、顕著に表面に現われる。」(同書、326頁、強調は内田)

 私も網野のこの評価に与する。明治維新以後今日までを通覧すると、海外に領土を拡大しようとして抜き差しならない戦争を始めたこと、軍民310万人の戦死者のほとんどは42年にミッドウェーで帝国海軍の主力艦船を失った後のものであること、戦後日本の高度経済成長を支えたのが海運貿易であったこと、人々が土地の所有・売買を経済活動の中心にしたバブル崩壊で日本経済が再起不能の深傷を負ったこと。これを見ると、海洋的である時と島国的である時で国運の潮目が変わるという一般的傾向があるように見える。もちろん、私の眼に「そう見える」というだけの話であるが、私にはそう見える。

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