プラスアルファ1:国事行為だけやってね
天皇の仕事は、本来、憲法に定められた「国事行為」だけにすべきだ。
それ以外は「公的行為」とされている。例えば共産党だって、公的行為は“憲法の範囲を逸脱しないものはいい”という形で認めている。「公的行為」を認めるという憲法学者は「国事行為の憲法のリストはあくまで『例えば』ってことだから、それ以外もやっていい」と言っている。
しかし、「公的行為」なんて憲法には規定されていない。「公的行為」なんて認めない、という憲法学者も少なくない。
憲法第4条はわりとはっきり書いてある。
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
だから国事行為以外をやめさせたほうがいい。
プラスアルファ2:ニッポンの象徴にふさわしく
「これぞニッポン」的な象徴のあり方を模索してほしい。
さてここが難問である。
例えば、民間養子天皇の場合、AKBメンバーが天皇になったり、スーパーボランティアが天皇になったりする。「オタクこそ今の日本だ」と思えばAKBのメンバーがやってもいい。スーパーボランティアの精神こそ日本的だと思うなら、尾畠さんみたいな人がやってもいい。天皇の仕事は憲法通りだから、国事行為しかやることはない。それ以上はやらなくていい。やってはいかん。でも、こういう元民間人の養子天皇の場合はすでにイメージがあるので、国事行為だけこなしていても大丈夫である。
しかし、もともと皇室の人、つまり生まれながらに天皇家の人は、なかなかそういう具体的な象徴性を示しにくい。
「天皇家の人というだけでいいじゃないか」という思うが、前天皇(明仁)はそこから脱却し、狭義の「国事行為」のみならず、いろいろ「公的行為」を駆使して動き回って、「感情労働」をこなすことで「平和憲法の理念を受け継ぐ象徴」という、国民全体はもとより、左翼の中でもけっこう人気の統合イメージを得たわけだから、「公的行為」を禁じた上で「天皇家の人というだけでいいじゃないか」とするのは、何となく抵抗を覚えてしまうのである。
だけど、しょうがないよね。そこは、がまんしてください。
まあ、どうしてもっていうなら……「公的行為」を多少認めてもいいけど。
プラスアルファ3:元号をやめる
「明仁、天皇やめるってよ」みたいなことが頻繁に起きるかもしれないので、元号はコロコロ変わってしまう可能性がある。
昔の元号みたい。ウィキペディアとかで確認しただけど、2年とかで変わるもんな。特に鎌倉時代のひどさに草。2年で終わった元号が12もある。「天福2年」だってw 三波伸介かよ。
だから元号の公式利用をもうやめる。混乱するだけなので。西暦だけにする。
元号は、天皇家が私的に発表するだけにしておく。LINEのメッセージとかでさりげなく使うと、「お、マニアなもん、知ってるね」みたいに、ちょっとおしゃれでプレミアなクール感☆が漂うかも!
大塚英志の問題提起
大塚英志は『感情天皇論』(ちくま新書)のなかで、前天皇が「象徴としてのお務め」をビデオメッセージで発し「お気持ち」を表明した時、国民がそのメッセージを事実上スルーしたという旨のことを次のように書いていた(強調は引用者)。
この「お気持ち」発言をめぐって顕わになったのは、私たちが戦後憲法下における天皇について「考え」たくないという、「意志」でなく「感情」の国民的共有であった。それは、象徴天皇が日本国憲法の定める「国民の統合の象徴」であるのなら、天皇が可能にする「国民の統合」という公共性のあり方について主権者である私たちはそもそも考えたくないぞ、というサボタージュの選択だった、と言える。(大塚前掲書、Kindle の位置No.83-87)
大塚はこの本の中で、統合の象徴という公共性のあり方を主権者としてもっと議論しろよ、という問題提起からまず始めている。天皇は統合の象徴であることを担わされているのに、国事行為しかできないのではその役割は果たせないじゃん、という矛盾を指摘している。
感情天皇論 (ちくま新書)
作者: 大塚英志
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日:
メディア: 2019/04/05新書
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大塚は「公共性」を、近代になって生まれた課題だとして、
「村から東京にやってきたら、隣の人が何を考えているかも分からない。そういう状態から、社会はどうあるべきかという公共性をつくらなければいけなかった」(東京新聞2019年5月18日付)
と捉えているから、むしろドライに国事行為だけをこなす存在にしてもいいと思っているのかもしれないけど。でもそうすると「統合の象徴」という文言が死文化しちゃうんだよね。被災地に行く天皇をマスコミが映す、平和の慰霊をする天皇の姿をメディアが流すから、そして明仁は必死でそこに努力(大塚の謂で言えば、「感情労働」)したから「統合の象徴」っていうのは平成になってもなんとか保たれてきたわけだ。
大塚は本書の終わりで、こうした矛盾を解決せず、人間疎外を引き起こす「感情労働」を天皇個人に課し続ける天皇制を「断念」すること、天皇を日本から切り離してバチカン化する方向を示している。詳しくは大塚の本を読んでほしい。
大塚がそう言わざるを得ないのは、天皇制について国民の総意を確認する方法がないからである。
「国民の総意」に基づく「統合の象徴」としての天皇が置かれてしまった。「総意」を確かめる手続きは憲法に示されない。これは、大きな問題だ。難癖をつけているのではない。手続きを経ない合意形成は、議会制民主主義が目指す公共性形成の手続きと相容れないからだ。(大塚前掲書、Kindle の位置No.3341-3344)
ぼくがあげた「さいきょうのてんのうせい」のモデル(天皇選挙)のようにすれば、その確認の手続きはできるのではないか?
まあ、ぼくがあげた「さいきょうのてんのうせい」のモデルには「それは現行憲法では無理だよ」というものもあるかもしれない。あるいは「この点は許せない」「さらに問題がひどくなる」というのもあるかもしれない。むしろそういうツッコミが聞きたいような気がする。
いずれにせよ、現憲法下の天皇のあり方は固定的に考えずに、もっと自由に議論してもいいんじゃなかろうか。今のくらいで十分じゃない? 親しみやすいよ、という結論になってもそれはそれでいい。