- 2019年10月20日 13:08
『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスター問題を考える
1/2『宇崎ちゃんは遊びたい!』を使った献血ポスターとそれをめぐっての太田啓子弁護士のコメント・行動が炎上しているな。
太田は詳しくは述べていないようだが、要するに宇崎ちゃんの「巨乳」強調のイラストが「無神経」であり「公共の場での環境型セクハラ」であるからという理由で赤十字に何らかの苦情を言ったものと思われる(くりかえすが、この理由は推測に過ぎない)。
これに対するツイッターなどのネット上のコメントを見ると、「あいちトリエンナーレ」の騒動と重ね合わせて、これも表現の自由に対する攻撃ではないのか、という意見がけっこう目立った。
「巨乳強調」は女性の人権を侵すか
そもそもの問題として、巨乳を強調したイラストを大勢の前に掲示するのは女性の人権を侵すこと、「環境型セクハラ」になるのか。
結論から言えば、「環境型セクハラ」=法令上の人権侵害とは思えないが、女性を性的な存在とのみみなし、部分化・パーツ化した存在とみなす意識を強化するかもしれない。(ただ、どんな虚構作品でも政治的にみて公正でない意識を強化する可能性はありうる。)そして、その不公正を批判する意見を述べることはありうる、ということである。
「環境型セクハラ」ではないことについては弁護士の吉峯耕平が書いている。ぼくなりに思うことについてはこの記事の末尾にまとめておくので、読みたい人はそちらをどうぞ。
ただ、太田の言いたかったことは、『ゆらぎ荘の幽奈さん』問題以来一貫していると思うけど、“個別女性の多くは豊かな全体性を備えた一人の人間であるのに、それを巨乳=胸だけ強調して性的なパーツのように扱い、部分化された、性的な存在としてのみ扱うことは、女性全体の尊厳を傷つけるもので、多くの男性(女性や他の性を含めた)の女性観に歪みをもたらす”ということなのだろう。たぶん。太田の気持ちを「忖度」*1して言えば。
法的にみてアウトではないものの、政治的には公正ではない、ジェンダーの加圧を高くするものだ、というのがおそらく太田の主張じゃねーのか。
これもぼくはこの種の性的なコンテンツを「楽しんでいる」一人として、前から言っているが、聞いておくべき・受け止めておくべき警告ではあると思う。
宇崎ちゃんは虚構の人物であり、性的パーツ化を「楽しんで」おけるのは虚構の領域だけだ。*2 そして、そういう虚構コンテンツがひょっとしたら、ぼくらの現実の意識の中にこっそりと侵入して、女性への偏見・誤解を広げるかもしれない可能性についてもきちんと認識すべきだ。
そして、これも前から言っているように、その種の政治的公正さから外れたもの、いわばポリティカル・コレクトネスを備えていないと思われるものは、性的なテーマだけでなく、まさに無限に存在する(家族、戦争、犯罪、宗教、暴力、年齢などなど)。そうした無数の警告の一つひとつに、どれくらいの「注意」の資源を割けるかは、まさにその人次第なのだろう。
例えば中川裕美は最近「しんぶん赤旗」で「少女漫画とジェンダー」の連載をやったけど、『NANA』『星の瞳のシルエット』『神風怪盗ジャンヌ』といった少女マンガの中にジェンダー上の不公正がどのように忍び込んでいるかについて語っている。
あるいは、政府が最近、映画『宮本から君へ』に麻薬取締法違反で有罪となったピエール瀧が主演していることをもって、「国が薬物を容認するようなメッセージを発信する恐れがある」として補助金の不交付を決定した。政府による不交付の是非とは全く別に、作品の中にそういう不公正が入り込んでいると主張することは、一般的にありうるのである。
そして、もうまったくいま手近にあるだけだから例に挙げさせてもらうだけなんだけど、たかぎ七彦『アンゴルモア 元寇合戦記』であっても「元・高麗軍の残虐さを創作上過度に強調することが、モンゴル人や朝鮮人の民族性に対する偏見を助長する可能性がある」という批判も成り立ちうる(ちなみに、ぼくはこの作品を「楽しんで」いる)。
つまり、創作物はほとんどのものが大なり小なり政治的不公正を含んでいる。どこかで誰かを傷つけていることは避け難いと言ってもいい。
しかし、これにすべて対応して不公正を除去しようとすれば「政治的に正しいおとぎ話」になってしまう。

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創作が成り立たないのである。
政治的不公正を批判する指摘というものは、当たっている場合もあれば、外れている場合もある。また、当たっていても、影響がほとんどないという場合もある。
「不公正だ」という指摘に対して、ひとつひとつ実際に不公正かどうかを検証していけばいい。そして、作家は、その指摘や検証(議論)を受け止めて、そのままにしておくか、作品を修正するか、撤回するか決めればいい。そしてその態度に対して……という無限の連鎖が続く。それが表現や言論の自由というものだ。
「宇崎ちゃん」については「女はおっぱいだよな」的な見方、「女性は性的な存在である」「女性は性的なパーツである」という見方を強化するおそれはある。環境型セクハラではないが、不公正さが含まれていると思う。だから、そうしたポスターに「これはジェンダー的に不公正ではないか」と意見を言うことはありうる。というか、言うべきだ。



