- 2019年10月14日 14:48
「不自由展」には入れなかったけど「あいちトリエンナーレ」は観てきた
1/2あいちトリエンナーレに行った。むろん再開された「表現の不自由展、その後」に行くつもりだったのだが、3回抽選に挑戦し、結局当選できなかった。


抽選を待っている間、愛知芸術文化センター内にある、「表現の不自由展、その後」以外の展示を見て回った。
これは、ぼくの目的からすると、実際に鑑賞してみて、とてもよかった。それは「政治的」であることときわどい境目を接している作品、あるいは「政治的」そのものである作品をたくさん見ることができたし、あるいは「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねないような作品をたくさん見たからである。
その二つの非難はいずれも「表現の不自由展、その後」の作品、とりわけ「平和の少女像」をはじめとする2、3の作品に向けられている言葉である。その非難の境目を曖昧にし、解体してしまう作用をぼくのなかでもたらした。
現代のアートと言われるものが、人の感性に入り込んでそれをざわつかせようと思えば、政治に触れないわけにはいかない。企業あたりが作った「人畜無害」な「絵本」のような“ふんわりしたもの”だけに限定することなどできないはずである。そのような「政治的」かつ「これがアートなの?」的な作品をたくさん見ることができた。
そして、「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねないような作品。〇〇にはいろんな言葉が入る。「プロパガンダ」「インタビュー動画」「描きなぐり」「広告」「いたずら」「教育フィルム」「朗読」……。
山口つばさ『ブルー・ピリオド』に出てくるこの言葉を思い出す。
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主人公が同じ講習生が「あれも工夫の一つじゃん」と指摘したのを聞いて、反省する。
また表面的なところで思考停止するところだった
画材って絵の具とオイルのことだと思ってた
絵って思ってたよりずっと自由だ
政治的なもの
例えばこういう作品を見た。体制に反対するなどして暴力を受け、母国や移動先の国にいられなくなった人たちのインタビュー動画である(キャンディス・ブレイツ「ラヴ・ストーリー」/A33)。あまりにも長すぎるので全部を「鑑賞」することはできなかった。

これは、ベネズエラのチェベス政権に反対し、しかも同性愛者である教授のインタビューである。それ以外にもシリアから逃れた女性のインタビュー動画があり、この教授と交互に映像が流れる。
実は、これは演者が語っている「再演」である。
この部屋の後ろに、同じ語りを、本人が語っている映像がある。「語る」という行為が客観視され、批評的になる。「語り」に共感し過ぎている自分や、逆に「演技だろう」と距離を置いてしまっている自分を発見することになる。
ただ、奥の部屋の方は吹き替えも字幕もないので、(ぼくのような英語ができない日本人には)その意図があまり果たせていなかった。人も表の部屋ほどいない。ただ、声のトーン、容姿はわかる。写真の同性愛者である教授は、こんなに若く、たくましくない。むしろ年老いて、貧相なのである。演者の見た目、声質に左右されている自分を発見する。
しかし、現実にその鑑賞室はどんなふうになっていたかというと、そんなキレイに、作者の意図通り、鑑賞者たちは“踊らせ”られないのである。
鑑賞する人はこの部屋に釘付けになっていって、人の出入りが他の展示に比べて小さく、このインタビューを長い時間聞いている人が多かったように思えた。つまり暴力を受けた人間のインタビューに強く惹きつけられている状態になったのである。いわば普通のドキュメンタリーを見ていた状態のまま無批評にそこを出る人も少なくなかったように思われる。
この作品は、例えばベネズエラやシリアの最も熱い「政治的なもの」を取り扱っている。政治的であるがゆえに、ぼくらはこの演者の再話映像の前でナイーブに聞き入ってしまわないかどうかテストされるのだと言える。
そして、表の部屋だけで出ていく人がいれば、これは一種の「プロパガンダ」でしかない。あるいは、「ただのドキュメンタリー映像」に過ぎない。
この作品一つをとっても、政治的なものを避けたり、「これは単なる〇〇であって、アートではない」式の非難をしたりすることは、説得力を失ってしまう。
あるいはこれ(タニア・ブルゲラ「10150051」/A30)。
鑑賞者は入り口で手にスタンプを押される。解説を読まない限り、その説明はない。

この数字は2019年に国外へ脱出した難民の数と、脱出が果たせずに亡くなった難民の数の合計だ。
だがそんな数字を見せられても何も心は動かされないだろ?
そこでこの作家はメントールの充満した部屋に鑑賞者を入れて無理やり涙を流させる。実際、俺も「泣いた」。「人間の知覚を通じて『強制的な共感』を呼び起こし、客観的なデータと現実の感情を結びつけるよう試みている」というのだが、この試みが大失敗している(結びつかない)ことによってむしろ数字=抽象化が引き起こす問題を突きつける。
岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で語ったように、オゾン層破壊をいくら数字で示しても「だけどそれがどうした? 実感がわかない 現実感がない」(p.13)というのがぼくらの中に絶えず起こる問題なのだ。
「広島を『数において』告発する人びとが、広島に原爆を投下した人とまさに同罪と断定することに、私はなんの躊躇もない」と詩人の石原吉郎(「三つの集約」)は怒りを込めて告発し、その告発の系譜を、こうの史代『夕凪の街 桜の国』も引いているのだ、とする見方もある。
タニア・ブルゲラは、そのような異常を、メントール部屋を企画することで表現している。
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