- 2019年10月09日 19:29
子ども部屋からみた少子化
2/2少子化のボトルネックとしての「子ども部屋」
冒頭リンク先は、少子化に関連した話題として子ども部屋と未婚男性を挙げている。が、子ども部屋と少子化を関連付けて語るなら、「個人のプライベートを重視した子育てでは、子どもが増えれば増えるほど部屋が必要になり、とりわけ大都市圏では子どもの数の上限を決定づける」のほうが筋が良いんじゃないかと私は思っている。
さきほど、『妖怪ウォッチ』のケイタ君の家を挙げたが、子ども一人に一部屋を用意する感覚では、2LDKの間取りでは子どもが一人しか育てられない。ケイタ君が弟や妹が欲しいと言っても、それは家屋の間取りからいって不可能だ。とはいえ天野家のご両親が3LDK以上の家屋を用意しようと思えば、それなりの経済力が必要になる。
2LDKや3LDKといった家屋のサイズは、そのまま家族構成の人数を決めてしまう。少なくとも「子ども一人一人に子ども部屋をあてがうべき」という習慣に沿って子育てしようと思うなら、そうだと言える。「子育てにはカネがかかる」とはしばしば言われることだが、それは教育費だけが問題なのでなく、家屋の間取りにしてもそうだ。現代の習慣に従うなら、小さな家屋では現代的な子育ては不可能だから、子どもをたくさん育てたければ大きな家屋を用意しなければならなくなる。地方に住んでいるならともかく、住まいのスペースに汲々としなければならない大都市圏、とりわけ東京で大きな家屋に住むのは簡単ではない。
教育費の高騰だけでなく、「子ども部屋」にかかる経済的コストもネックになっているから、東京に住まう男女が子どもをたくさん育てるのはいかにも難しい。
「子ども部屋はあってしかるべき」というプライベートに関する習慣さえなくなれば、この限りではないかもしれないが。
「プライベートな部屋、プライベートな個人生活」の根は深い
「個人のプライベートな生活」についての習慣はしかし根深い。
先にも触れたとおり、それは近代以降の西洋社会に始まって、中~上流階級の家庭から庶民の家庭へと広まっていった。子ども部屋の誕生と個人のプライベートな生活の誕生は、おおむね軌を一にしている。
日本で個人のプライベートな生活が持て囃されるようになったのは1980年代あたりからだ。戦後の新しい家屋で育った、まさに子ども部屋を持った都市部の若者から順を追って、個人の生活はプライベート化していった。その最たるものは、1980年代に登場した「オタク」と「新人類」だ。
少なくとも20世紀の段階では、オタクは子ども部屋がなければできないものだった。なぜならSF小説にせよ漫画にせよアニメのLDにせよ、本気で追いかければ追いかけるほど収納スペースが必要になり、誰にも邪魔されずに観賞できる空間が必要になるからだ。たとえば昔の農家の家の家庭環境では、だからオタクはやりようがない。
それ以前の問題として、時間や空間を一人で占有するというプライベートな感覚が、農家の家では生まれにくい。地域共同体での生活、特に農家の生活は時間や空間を他人と共有するのが当たり前だったから、そういう意味ではオタクを生んだのは子ども部屋と言っても過言ではない*1。
新人類もまた、消費個人主義の先端を行く人々だった。ワンルームマンションに住み、朝シャンをして、コンビニでスタンドアロンに用を済ませる当時最先端の消費生活は、とりもなおさず個人のプライベートに根差していた。ある意味、ワンルームマンションは子ども部屋の延長線上に位置付けられるインフラと言っても良いかもしれない。地域共同体からはもちろん家族からもセパレートされた、個人のプライベートの内側だけで生活を完結させるためのインフラが、ワンルームマンションだった。
そして新人類たちはオタクをユースカルチャーのヒエラルキーの底辺に位置付けると同時に、非-消費個人主義的な、昔ながらの地域の若者をもダサいと見下したのだった*2。
新人類とオタクは1980年代には新しいライフスタイルの具現者だったが、彼らのスタイルは1990年代以降は希釈化されながらも全国に定着化していった。その全部ではないにせよ一因は、子ども部屋の普及にあると思う。全国の団塊世代が郊外のニュータウンにマイホームを構えはじめた時、その新居には子ども部屋があった。子ども部屋を与えられ、自分だけの時間と空間を過ごす習慣を身に付けた団塊ジュニア世代は、オタクや新人類のフォロワーたりえた。時代のトレンドもまた、そのような個人消費主義を望ましいものとして称え続けてきた。
令和時代の私たちは、そうした習慣やカルチャーの流れの延長線上にいて、個人のプライベートな感覚をしっかりと内面化している。そんな私たちがプライベートな感覚を撤回したライフスタイルをやってのけるのは、おそらく簡単ではない。たとえば2LDKの家屋で子どもを3人育てるのは物理的には不可能ではないが、個人のプライベートを守りながらそれをやってのけるのは、やはり不可能だ。個人のプライベートな意識が確立し、それに見合った機能が家屋に求められる習慣のもとでは、子どもの数だけ部屋も必要になる。
子ども部屋を撤廃できるものか
戦前から戦後にかけて、私たちの家屋は大きく変わり、個人のプライベートな感覚もすっかり定着した。このことを踏まえて考えると、子ども部屋もまた、これはこれで子どもの数を制約する一要素と考えたくなるし、子ども部屋と少子化を関連づけて考える余地はあるように思う。
では、私たちは子ども部屋やプライベートな個人生活を捨てることができるものだろうか。
子ども部屋は、私たちの個人としてのプライベートな意識や生活を象徴するとともに、それと不可分な関係にある。
個人のプライベート化が近現代の先進国にほぼ共通してみられた流れだけに、それらを本当に捨てられるものなのか、私にはちょっとわからない。
*1:このことに加えて、たとえば放課後の塾通いのような個人のスケジュール化によっても個人化は促されるが、それはまた別の機会に。
*2:補足すると、子ども部屋がなければオタクも新人類も、サブカルもやれない。他方、1970年代以前の不良や1980年代以降のヤンキーは、子ども部屋がなくてもやれなくはない。
- シロクマ(はてなid;p_shirokuma)
- オタク精神科医がメディアや社会についての分析を語る



