- 2019年09月26日 11:43
嵌められた日本企業:「金正恩のベンツ」不正輸出事件を追う - 古川勝久
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北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が使用する高級乗用車「メルセデス・マイバッハS600ロングバージョン」は、ドイツで製造された後、オランダのロッテルダムに輸送され、その後、中国の大連、日本の大阪、韓国の釜山を経てロシアのナホトカまで海上輸送され、ウラジオストクから北朝鮮へ空輸――つまり、「密輸」された可能性がある……。
「黒幕」に仕立て上げられた社長
2019年7月16日、米国の研究機関「C4ADS」が公表した報告書「LUX & LOADED」は、世界に衝撃を与えた。金委員長が果たしてどのようにして、国連禁輸品の高級乗用車を調達していたのか。長らく解明されなかった謎に、ついに解明の糸口がもたらされたというのである。
そして報告書が不正輸出の中心人物として名指ししたのが、大阪西区に所在する「美濃物流株式会社」と徐正健社長である。
報告書の発表後、徐社長と美濃物流は、世界中のメディアで「制裁違反者」として実名が報道された。しかも日米等の金融機関等から資金洗浄容疑をかけられてしまい、今や深刻な打撃を受けており、会社の存続が危ぶまれる事態にすら直面している。
徐社長は自らの無実を晴らそうと、真相究明のために弁護士チームや筆者に調査を依頼してきた。その後、徐社長の全面協力の下、調査が進み、今回の事件の意外な全貌が明らかになっている。
調査の結果、後述のB氏にベンツ輸送を依頼していた「真の黒幕」は、ロシアと中国にいることが判明している。いずれも北朝鮮と深い関係にある人物だ。そして不正輸出には、韓国・釜山市に配置された協力者や、イタリア・ローマ市所在の疑惑の企業も関与していた。
北朝鮮の非合法ネットワークは、複数の国々を巻き込みながら、複数の「層」からなる調達ルートを築き上げて、首謀者は一番背後に隠れていたのである。彼らは書類改ざんなどを通じて不正輸出に対する自らの関与の痕跡を消し去ったうえで、事情を知らない第三者である徐社長を巻き込んで、ベンツの「荷主」に仕立て上げていた。
徐社長は、自らが知らないうちに北朝鮮の非合法ネットワークにがっちりと絡めとられていた被害者だったのである。
日本企業が北朝鮮の非合法活動に知らずと巻き込まれてしまうリスクは、今も厳然として存在する。他の日本国内の企業や金融機関にとっても、この事件は決して他人ごとではない。
徐社長はどのようにしてはめられたのか。本稿でその一端を紹介する。
事件の始まり
「この貨物はとっても急ぎなの」
2018年8月24日、大阪市西区にある美濃物流株式会社の徐正健社長宛てに、中国・大連市所在の物流会社(A社)の中国人女性(B氏)から、中国のメッセンジャーアプリ『WeChat』を通じて連絡が入った。
B氏は、徐社長の知り合いから紹介された人物だった。徐社長が初めて連絡を受けたのは8月2日。B氏は「家族と旅行で2日間、大阪にいた」とのことだが、徐社長はこの人物と会ったことはない。当初、B氏からは、日本から中国に酵素飲料を輸入したいので、「日本側で通関手続きなどを請け負ってほしい」との要望だった。
B氏が徐社長に送った名刺には、大連A社の「总经理(社長)」とあった。大連A社は中国で合法的に登記されており、会社情報は中国語のインターネット上で簡単に見つけられる。
当時の通信記録を見ると、B氏は徐社長に対して取引を積極的に持ち掛けていた様子が見える。
「早く進めましょう」「今後、御社の取引量は増えますよ」
やがて8月14日に突然、話の流れが変わった。
「大連から日本向けの貨物輸送業務をお願いしたい」
メルセデス・ベンツ2台を大連港から大阪港までコンテナで送るので、それを他の船に積み替えてから、中国の上海港まで輸送してもらいたいという。大連港での車両の積み替えに関する税関の手続きが複雑なので、一度、中国から第三国へ急に輸送しなければならなくなったという。
奇妙な話
ベンツを中国から日本まで運んで、そのまま別の船に積み替えてまた中国に戻してほしい、とは実に奇妙な話である。だがB氏によると、大連港で「顧客」が、オランダから運んできたベンツを自社の在来船に積み替えたうえ、その船に中国国内で購入した鋼材も一緒に積載して輸送しようとしたところ、中国税関から許可が出なかったという。大連港では、「中国製鋼材」という「内貨物」と、ベンツという「外貨物」を在来船に一緒に積載することが認められないとの話だった。
一見もっともらしい説明だが、果たしてこれが真実かどうかは、中国当局のみが知るところだ。
しかし、そもそも徐社長には車両の取り扱い経験はなく、しかも日本の港で貨物を他の船に積み替えるだけではほとんど儲けにもならない。当初、この話に消極的な徐社長は「ほかの会社を探す」とB氏に説明していたが、ついにB氏の強い要望に押し切られてしまった。
当時の通信記録を検証してみると、B氏の説明には他にも不自然な点があった。
「コンテナの中身は見てない」
例えば8月24日、徐社長がコンテナ内のベンツの写真をB氏に要請した際、次のやり取りがあった。
B氏「必要な書類は何? 積載貨物リスト? 契約書?」
徐社長「そうです。あと写真も必要です。車の型番等の情報も」
B氏「車の写真は添付の通り」
徐社長「バンニング(筆者注:コンテナ内に貨物が詰められた状況)の写真は?」
B氏「この貨物はほかの国から輸入してきたの。私も実物を見ていません。バンニングの写真もありません。ベンツS600 黒色」
徐社長「バンニングの写真をもらってないの?」
B氏「外国でコンテナ積み込みしたので写真はもらってないです」
ベンツS600といえば、1台2000万円以上もする高級乗用車である。傷がつけば、大変な責任問題になるはずだ。にもかかわらず、B氏は、自分はコンテナ内の貨物を確認していないという。しかも、徐社長の要請にもかかわらず、コンテナ詰めされている貨物の写真は必要ないとさえ主張していたのである。
船荷証券には、貨物のベンツ2台は「メルセデス・ベンツS600セダン・ロング・ガード・バージョン9」と記載されていた。これは通常のセダンタイプだが、もしかしたらコンテナの中には、C4ADS報告書が指摘する通り、セダンではなく、ロングタイプのリムジン車「PULLMAN」が入っていたのかもしれない。まさに金正恩氏の乗るタイプの高級乗用車であり、もしそうであれば、税関当局の関心を惹いたことだろう。
さらに加えて、この時点ですでにベンツは防弾仕様の装甲車両に改造されていた可能性も考えられている。金委員長や朝鮮労働党の幹部が乗る車であれば、防弾仕様への改造は必須のはずだ。もしコンテナ内の写真があれば、改造された高級ベンツ車両ということがわかるため、日本の税関当局の関心を惹いていたのではないだろうか。そのようなリスクを回避する意図もあった可能性がある。
謎のイタリア企業
8月27日にも、奇妙なやり取りがあった。
徐社長「大連側の貨物の荷主はどの企業?」
B氏「荷主に使っているのは、オランダの会社。大連ではない」
徐社長「送り状にはローマの住所が書いてあるけど?」
B氏「まあ、外国の荷主よ」
B氏の説明のいい加減さは言うまでもないが、中国では残念ながらこのような業者が非常に数多くいる。
本来、B氏の大連の会社こそがベンツの「荷主」のはずだ。ベンツはロッテルダム港から大連港まで運ばれた際、B氏の会社が貨物を引き継いだはずだからである。
しかし、B氏はなぜか、「オランダの会社」を荷主にしたままだという。つまり、B氏はベンツを大連港で引き受けていなかったことになる。この時点で、すでに船荷証券等の書類から、なぜかB氏の大連の会社名は消しさられていたようである。
【海上輸送関連書類から消されていた中国企業の情報】
■本来あるべきベンツの「荷主」の流れ
オランダ・ロッテルダム港:「オランダ企業」
⇒ 中国・大連港:B氏の大連企業
⇒ 日本・大阪港:徐社長の会社
■書類変更後のベンツの「荷主」の流れ
オランダ・ロッテルダム港:「イタリア企業」
⇒ 中国:B氏の大連企業(仲介企業の記載なし)
⇒ 日本・大阪港:徐社長の会社
ちなみに、この「イタリア企業」は実際に存在する会社だ。なぜこれがベンツの「荷主」だったのか。徐社長と筆者がこの会社に照会をかけているが、これまでのところ一切返事はない。
同社の営業責任者に『Facebook』の「メッセンジャー」で連絡したところ、「俺たち知り合いだっけ?」との短い返信だったので、「調査へのご協力をお願いしたいので、書簡の送り先を教えてほしい」と伝えたところ、先方は黙ってしまった。
ちなみにこの営業責任者が『Facebook』にアップロードした自身の写真の中には、2012年9月に撮影された、在イタリア北朝鮮大使・キム・チュング氏とのツーショット写真がある。このイタリア企業と北朝鮮との関係が推測されうる。現在、調査継続中だ。
B氏が中国税関や船舶会社に提出していた書類では、徐社長は知りもしないこのイタリア企業からベンツ2台を購入したことにされていた。B氏の後の説明によれば、中国の税関側の手続きを円滑に終えるために、便宜的にそうしていただけだという。これまた、実にいい加減な説明である。
ただしこの時点では、B氏の説明には、いかにも中国の中小企業らしいいい加減さこそ見受けられたものの、何か不正行為を行っている気配があったわけではない。しかも、B氏は貨物輸送を「とても急いでいる」と徐社長を急かし続けていた。
さ らに徐社長には急がなければならないもう1つの理由が増えてしまった。
巨大台風21号が関西に接近していたのである。
巨大台風に襲われた「金正恩のベンツ」
「ねえ、あなた、いったい何してるの?」
2018年8月30日、B氏はしびれを切らして、怒りのメッセージを徐社長に送ってきた。台風の影響で、上海向けの貨物船の大阪港への到着が大幅に遅れていたのである。
翌31日、ようやくベンツ計2台を乗せたコンテナ2隻が大阪港に到着した。当初の予定では、そのまま大阪港でベンツ2台を別の船に積み替えて、貨物は9月6日に上海に向けて大阪港を出発するはずだった。
しかし、その直前の9月4日に巨大台風21号が大阪を襲ったのである。このため、港湾機能が完全に麻痺してしまい、ベンツの日本からの輸送は予定通りにはいかず、困難を極めることとなった。
「うちのコンテナは大丈夫なの?」
9月5日、B氏は徐社長に心配そうに問い合わせてきた。B氏はその後も連日、徐社長を急かし続けた。
「通関できる? 船は確保できた?」
「待つしかないの?」
「契約違反よ!」
「予定を教えて! 私、怒ってるのよ! この件で病気にかかったわ!」
当時の通信記録には、連日、B氏に責められ続ける徐社長の苦悩ぶりが浮き彫りになっている。
その過程で、徐社長が初めて、ベンツの「顧客」が実はロシア企業であったことをB氏から知らされたのは9月14日のことだった。
徐社長は、新たな貨物船の手配や、貨物保管の延滞料金の支払いを巡って、B氏からさんざん責められて急かされながらも、9月27日、ついにB氏の要望通りに、上海の代わりに新たに釜山に向けてベンツを輸送するに至った。9月28日、B氏と徐社長との間で、最後のチャットが次の通り記録されている。
B氏「徐社長、こんにちは! 昨晩、船が出ました?」
徐社長「はい」
徐社長にとってはこれで全て終わりのはずだった。だが、後に徐社長は痛恨の念で当時を振り返ることになる。
「途中で何度も断ろうと思ったけど、問題がどんどんでてきて断れなかった。混乱していたので、先方の要望通りに従った結果、まさかこんな大問題に巻き込まれるとは……」
当時、彼がまだ知らなかった事実があったのだ。
ベンツ2台が向かった先の韓国・釜山港では、北朝鮮と親密な関係にあるロシア人と、その地元協力者が待ち受けていたのである。