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少年Aを生んだ「ノイズのない社会」に必要な物

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競争に負けた人のセーフティネットが宗教だった

そういう人に対して寛容な社会であれば、まだ精神的に何とか持ちこたえられるのですが、飲みながら愚痴をこぼせた日常は、古き良き時代の趣きさえあります。

お能をみると、妖怪になって夜な夜な旅人を襲うような化け物がでてきます。ところがその化け物たちはみんな不幸な境遇で傷ついた人間の変化なのです。そしてそのこころの内を旅の僧が聞いてやると、妖怪は天上に昇っていきます。誰でも突然不幸な境遇となることがあり、傷ついて妖怪となってしまう。そういうものがこころなのであって、常にピンピンしているものではありません。

時代が変わったとしても、人間のこころが強靭になるわけではありません。傷つきやすい、フラジャイルなものです。

高度経済成長の時代、経済神話、企業信仰があった時代、身分は企業という“御本尊”に守られていたので、会社に依存していればさほど問題はありませんでした。「安心」や「信頼」は、ある意味タダのようなもの、空気のようなものだと思い込んでいました。気がつかないうちに、競争からこぼれ落ちた人へのセーフティネットを、あの時代に捨て去ってしまったのです。

そのセーフティネットの一つが宗教なのです。

「もう一本の線」があれば人生を立て直せる

そのことを痛感したエピソードを紹介したいと思います。

大学院でぼくが教えた女性が、タイに住む大学講師の男性と結婚するというので、結婚式に出席したときのことです。新婦は、タイ仏教の研究者で、上座部仏教の研究をしていました。彼女自身が慈悲に溢れた仏教者で、ホスピスで傾聴ボランティアをしていたりと、たいへん心優しい女性でした。彼女はタイで大学の講師となり、そこで新郎と知り合ったわけですが、彼は幼少時から僧侶となり、還俗して大学の講師になった人で、彼もまた優しさに溢れた素晴らしい男性でした。

結婚式で、新郎の父親が印象深いスピーチをしました。

「こんなに徳の高い女性と結婚できたうちの息子は、ほんとうに幸せ者だ。彼女はタイまでやってきて仏教の研究をしていて、瞑想をしていたりする。何て徳の高いお嫁さんなんだろう」

ぼくは、「徳の高い女性と結婚できて幸せ」という言葉を生まれて初めて聞きました。

日本人ならば、さしずめ、

「こんな可愛(かわい)らしいお嫁さんが来てくれて喜ばしい」

などと挨拶(あいさつ)する程度です。

ぼくはそのとき、「タイの人は強いな」と心底思いました。タイも日本と同じ資本主義国です。収入が得られなくなって生活をしていけなくなれば、暴動も起きる。日本と同じように、人びとは経済人としての人生も生きていますが、タイの人は“もう一本の線”をもっているのです。その線とは、仏教の中で徳を積み、在家であれば来世によき輪廻を求めながら、人間的な成長を人生において求めていくという生き方です。いわば複線的な生き方ならば、たとえ不況になって失業したとしても、もう一本の線が残っている。もちろん宗教で食べていくということではありませんが、立て直しにつなげていけるこころ、支えられている感覚が生き残っているのです。それがあれば不況になろうが失業しようが、人生のレジリエンスにつなげていけるわけです。

こういう話はタイだからではないか、新婦が結ばれた男性の家は、とりわけ宗教との結びつきが強かったのではないか、と思うかも知れません。しかし、日本も時代を少しさかのぼれば、タイのような、複線の国だったのです。

日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきだ

以前、哲学者の山折哲雄さんと対談したとき、彼も昭和20年頃までは日本も複線構造、山折さん流にいえば、「和魂洋才」という「二重構造」をもっていたと力説されました。


上田紀行『立て直す力』(中公新書ラクレ)

和魂が生活の基盤を成していたにもかかわらず、日本はさっさと仏教文明であることをやめた。いつやめたかといえば、明治維新のとき(『次世代に伝えたい日本人のこころ』)。

そして完全に単線化したのは、やはり昭和20年以降だと言っていました。

ぼくも山折さんの意見とほぼ同じです。

日本は経済成長とともに、宗教を手放していったのです。

日本のなかにも先ほど触れたような、息子が日本人女性と結婚したタイ人の父親のような人はいました。宗教や精神性がもっと身近にあったし、こころの中心にもあったのです。しかしそれが失われたように一見見える現代においても、その複線社会を甦(よみがえ)らせるのに遅すぎることはありません。

ぼくは、日本人はいまこそ宗教に向かい合うべきときだと思います。

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上田 紀行(うえだ・のりゆき)
文化人類学者、医学博士、東京工業大学教授、リベラルアーツ研究教育院長
1958年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。岡山大学で博士(医学)取得。86年よりスリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークを行い、その後「癒やし」の観点を最も早くから提示し、生きる意味を見失った現代社会への提言を続けている。日本仏教再生に向けての運動にも取り組む。代表作『生きる意味』(岩波新書)は、06年全国大学入試において40大学以上で取り上げられ、出題率第1位の著作となった。近著に『愛する意味』(光文社新書)がある。
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(文化人類学者、医学博士、東京工業大学教授、リベラルアーツ研究教育院長 上田 紀行)

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