- 2019年09月02日 19:37
敗戦74年の夏の終わりに思う〜疾(やま)しき沈黙に水をさす言葉を〜
2/2<信念と覚悟なき近代日本のエリート>
評論家の鶴見俊輔は、かつてこういう日本のエリートたちの持つ疾患を「一番病」と呼んだ。この病気の症例の典型は、東京帝国大学を首席で卒業した、実父である戦前の文筆家・政治家鶴見祐輔である(祖父は、東京市長、台湾総督府民政長官、満鉄総裁だった後藤新平)。
一番病とは、近代日本の学校教育において、外からの手本(教科書)になんら疑問を持たず適応し、その内容を暗誦する能力という基準からみて最も成績が良い者たちのかかる疾病である。彼らが有能なのは、「新しい教科書」の内容を正確にオウム返しすることで、教師の意図を忖度し先回りして準備するという一点である。所謂「銀時計組」(首席卒業者には天皇より「恩賜の銀時計」が与えられた)である。
一番病ばかりを集めた近代日本のエリートは、「世界の大勢」が変わり、これまでと完全に切断された異なった教科書が入ってくると、かつて教わったことと、それがどれほど矛盾するものであっても、精神的に葛藤を起こすことなく、一瞬のうちに健忘症にかかって、新しい教科書に適応できるという、特殊な能力を持ち合わせていた。敗戦は、その病状を可視化させたのである。
父祐輔は、戦時中は近衛文麿の大政翼賛会に熱狂していたが、玉音放送を聞いた直後、「自分は英米法科出身だし、英語も不自由ないから米軍のために役に立つ仕事があるはずだ」と、ひとかけらの葛藤もなく漏らした。俊輔は、そういう無節操な、一瞬の後に「次の教科書(デモクラシー)」の下で優等生にならんとする父親に、激しい嫌悪と軽蔑の念を抱いた。
俊輔自身は、病的なほど自分を溺愛した結果自分を縛りつけた母親との葛藤の中で不良乱行の限りを尽くした結果、開戦の数年前にアメリカのハーバードに留学させられ、その時は一番病的に猛勉強をした。劣等と一番を往復したことになる。
しかし、間も無く起きた日米開戦の際には「日本が負けることはわかっていたが、その時には負けた側にいたかった」という根拠を特定できない気持ちで、交換帰国船で帰日した。彼はそれも含め、ある種の「葛藤」を経て、軍属として送られた南方で「人を殺すか自殺するか」と苦しみぬいた人間だっただけに、父親の無節操、無思想ぶりに絶望したのである。
父のとった態度が含む問題は、「昨日までの敵にぺこぺこする人間としての卑しさ」という「一般的道徳」の問題だけではない。肝要なのは、こうした思想的転換を精神的な苦悩や葛藤を全く生み出すことなく成し遂げ、様々なイデオロギー的な衝突をすべて瞬時に「棚上げ」にすることができる、その精神構造である。そして、これは「忖度と萎縮による沈黙」と、コインの裏表の関係にあるだろう。
<封じられた葛藤の行き先>
あの戦争への突入を決意したエリートたちは、自ら告白したように、抵抗できない「空気」に乗った。しかし、曲がりなりにも燦然と輝く高等教育を受けてきたのだから、アジア・太平洋戦争を戦ったことの意味と正当性について、終戦時において、いくらかでも言い訳が用意されていたはずである。
・・・世紀転換以降、先発型資本主義列強の世界市場獲得の圧力は相当に強く、少資源国家日本は後発組として苦しい立場に追い詰められ、国民に十分な富を配分するには、絶対量としての生産が追い付かず、新たな生産や資源採掘の領域を発展させない限り、じり貧的に追いつめられる一方だった。
ところが中国における権益を目指すアメリカは、継続的に日本に対して種々の圧力を加え、満州における日本の権益を認めようとせず、ついには経済制裁(粗鉄と石油の禁輸)によって追い詰めてきた。
窮乏回避のために資源の安定供給を求めて東南アジアへ進出した我らに対して、今度は在米日本資産凍結を実行し、最後の日米交渉でも「戦争を誘導する」としか思えない最後通牒を出してきた。
欧米の横暴なアジアにおける経済的政治的支配を打破し、真の意味における自立を期して、座して死を待つより、むしろ日本は開戦を選択したのであって、それは新しい歴史を作る戦いだった。したがって、戦には負けたとはいえ、あの大義は間違っていなかった・・・と。
敗戦とは、軍事的な失敗という事実だが、それは必ずしも「自分たちの理念や今なお信じていることは一切無意味になった」ということではない。白洲次郎が「我々は戦争に負けたが奴隷になったわけではない」と喝破したあの意味である。
それゆえ、爾後歴史によってどのように裁断されるかは別として、「軍事的には敗北せしものの思想的敗北にあらず。正しいと信じる間は”我々が正しい”と言い続けるのみ」と毅然としていれば、そこには「信念を持って言い続ける態度はあっぱれである」という評価の余地があるはずだ。
しかし、その判断の根拠は、相当な合理性と自らの矜持と文化的遺訓に支えられ、徹底した思想的一貫性を持たなければ、国際社会で敬意を受ける高潔な存在とはなりえない。
我々の先人統治エリートにはそうした葛藤を、あの場面で毅然と言語化し、説明した者達はごく少数しかいなかった。ほとんどのエリートは、小心翼々と強者がもたらす新しい教科書に、大した葛藤なく飛びつきリセットを行うという功利に陥った。その意味で、近代日本のエリートたちの悪しき柔軟性をもつ「精神的習慣」には深刻な問題が含まれていたのである。
同じように破滅的な戦争にドイツ国民を導き、ニュールンベルグで軍事裁判を受けた元ナチスの大物ゲーリングは、エリートとして明確な権力意識を隠すことなく、「あれは自分が確信をもってやったことであって、今でも間違っていない」と、被告席で哄笑したと伝えられている。
極東での日本の被告たちが世界に示したのは、「自分はそのような判断をする立場になかった」、「一介の軍人として上官の命令に従っただけである」、「自分はつまらないひとりの臣下にすぎず自分は天皇陛下があってこそ輝く者である」と言い逃れをする卑小なる姿であった。
そこには葛藤を自覚しつつも封じ込め、その上で毅然と覚悟と矜持を示す者は誰もいなかった。これを見守るかつての周辺エリートは当然沈黙を守った。破滅が訪れようと、葛藤なき転回も、疚しき沈黙も、いずれも終わらないのである。
<戦後は「空気に水をさす」人間を生み出せたのか?>
戦前の日本のエリートたちは、かように「それはまずいのではないか」と言えず、近代以降人々が構築してきた様々なものを文字通りほとんど破壊させた。国土は焦土となり、軍事的のみならず道義的敗北をも世界にさらした。そして、それに対する検証作業を放置させた。
こうした「葛藤なく、新しい教科書を暗記し、大勢と空気が変わればそれを読みまた適応し、その帰結として破滅を招いても一切の責任を取ることなく、次の空気を読む」彼らの性癖は、戦後新しくアメリカによってもたらされた「デモクラシーの教科書」によって克服されたのだろうか?
否である。
そして、このプロセスは基本的には変わることなく、あれから70年以上を経た現在も継続中である。
我々の統治、社会の運営では、様々な政治、社会的エリートたちによる「空気読み」と過度に萎縮した「忖度」によって、法に背く官僚の行為も不問に付され、憲法上の権利も侵害され(行政文書を改ざんする。それを検察は起訴することもしない。表現の不自由を問うための「自由」を政治家の権力的介入によって侵される)、加えて、行政権力の陰陽にわたる種々の圧力を忖度した自治体は社会が知見を成熟させるための討論のアリーナの提供を拒否し、民間ジャーナリズム、公共放送局を自称するテレビ・ラジオ局は、あからさまな報道における作為と不作為を通じ、民主政治の素材である「ファクト」を社会に適切に提供できない事態となっている。
1945年の統治エリートたちは、9年前のクーデター未遂(2.26事件)によって、「自分が現実に暗殺される可能性」の下で、その実感と恐怖に囲まれて生きていた。若い将校たちのテロリズムは、賢明なるエリートたちが「合理に基づいてものを言う」条件を直接的に脅かしたし、そこに至るまでにあらゆる政策領域で積み上げられてきた戦争を準備する決定が、分厚い壁のように彼らの前に立ち塞がった。
憲法構造も、国家構造を構成している要素が過度なまでに分散・多元化していて、そもそも誰がどこに正しい政治的圧力をかければ、どのような決定過程が機能するかも、各々のエリートはわからなかったろう。エリートたちの活動の場においては、それは不毛なるセクショナリズム、悪しき縦割り行政構造として現れたろう。
<整然と忖度に水をさすシステムの構築を>
しかし、今日、我々の政府や社会に与えられている条件や諸制度は、曲がりなりにもこうした戦前の失敗と悪弊の克服を目指す民主政治と、それを保障する新憲法とともにある。総理大臣の選挙演説にヤジを飛ばしただけで、警察に拘束されるという独裁国家並みの事件も起こっているが、これはまだ「異常なことだ」という社会的反応をかろうじて残している。まだ、少々完全なる破綻までには時間があるのかもしれない。
あの戦時中にエリートの精神内で起こっていたことは、基本的には変わっていない。だから、私は、注意を呼びかけたいのである。我々が「今」できることは、エリートたちの「あらまほしき鋼のような信念と思想の再構築」を待つことではない。残念ながら、これにはもう100年の時間が必要かもしれない。
それを見据えながら、なお今できるのは、我々の社会の宿痾である「悪しき忖度と沈黙」に冷水を浴びせるシステムである。
合理的裏付けがないという「自覚」があるにも関わらず、恒常的に生み出される「身体化された忖度」。これに対して、きちんと整然と「水をさす」行為の手法と手続きを、国家と市民社会の両方の基盤において、制度的に、法的に、システム的に構築することが必要である(「空気を読まない者達を保護するシステム」、「政策ターミネーション」と言われる、政策の中断・廃止・収束」を合理的に行えるための手法やその研究」などはその例だろう)。「間違ったら引き返して止める」ことを「失策」とひたすら論難するだけではなく、これを整然と行わせる手続きの設定も重要だ。
萎縮した忖度から生まれる「重大な問題への無抵抗の黙認に向かって静かに背中を押す空気の流れに身をまかせること」を粛々と寸断する「声帯の振動と記録」が、310万人の戦没者の御霊に応えるためにも、我々にはそれを制度化させる責務がある。
今日なおも、止むを得ずなされた忖度と沈黙の後に、統治エリートたちと我々の間に、起動力としてのある種の「疚しい」気持ちがわずか一片でも、もしもあればの話であるが。



