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- 2019年08月26日 17:12
「超人」弁護士たちへの目線
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以前から時々、メディアで取り上げられる、彼らのように信念に基づき、無償で弁護を引き受ける弁護士について、ひとつかつてと大きく違ってきたと感じることがあります。それは、彼らの取り上げ方に対する同業者の目線です。今回のような取り上げ方がされる度に、こうした弁護士の姿勢が一般化される、そういう形で社会に伝わることの方を危惧する同業者の声が、ネットなどを通じて聞かれるのです。
「彼らは尊敬できる。でもどの弁護士もが、彼らのような『超人』になれるわけではない」
同業者のそうした声は、当然、利用者市民の過度な要求につながることを懸念するものといえます。彼らのような「超人」が、弁護士の鏡であり、あるべき姿のようにとらえられれば、即座に「なんであなたはそれをやらないのか。やっている弁護士もいるじゃないか」という依頼者市民の声が返って来るのではないか、そういう声につながるのではないか、というおそれです。
しかし、もともとそれは現実的に無理といわなければなりません。資格業として成り立たせ、普通に生活をして、家族も養う、そのなかでゆとりや豊かさも求める。そういう前提でない人だけが、弁護士になるなどということは、過去においてもない。いかに人権の擁護と社会正義の実現を使命にする資格であっても、「超人」「奇人」だけが務まる仕事という話はどこにもないのです(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。
もっとも、かつてと違うところもう一つ挙げるとすれば、「超人」も「超人」予備軍の人材も、「改革」によって、かつてよりも生きづらく、生まれづらくなった、ということはいえるかもしれません。おカネをとらない弁護士たちが、何で生活できているのかには、そもそも個々人の一般化できない事情や有利な条件がある可能性もあります。しかし、それを脇においても、増員政策による弁護士の経済的激変は、彼らの信念を貫けるだけの、最低限の経済的余裕も奪っていることは考えられます。
どこまで耐えられるかは、それこそ彼らの信念と価値観に委ねられることですが、依頼者市民にとっては、それこそ手を合わせたくなるような彼らの信念を、貫き難くする方向、いわば足を引っ張る方に、「改革」が作用していることは十分に想像できることです。
もう一つ、メディアの取り上げ方に関係して、同業者の不安をかき立てている事情を付け加えておく必要があります。それは、日弁連・弁護士会主導層の姿勢が、自己犠牲を前提にしている弁護士像を、弁護士法1条の使命の先に、理想としているように見えることです。そして、それは個々の普通の弁護士として、決して有り難くないアピールを社会に対してしているのではないか、ということです。
採算性ではなく、あるべき論を前提に、弁護士のニーズを考える。まさに増員政策の失敗につながった発想は、基本的に変わっていないのではないか、と。強制加入でありながら、会費が個々の弁護士の業務にプラスに跳ね返ってきているという実感できない現実につながっているものです。そして、そうした主導層の弁護士自身は、必ずしも「超人」ではない、という事情も付け加わっています(「問われる弁護士会主導層の現実感」 「日弁連の『改革』の発想と会員の『犠牲』」)。
市川弁護士の記事のなかに「絶滅危惧種」という表現が出てきます。昔も今も彼らのような弁護士は「絶滅危惧種」だったというべきです。また、彼らのように生きて、信念を貫き、感謝されることは、遠藤弁護士に感じたように、傍目にもそれは幸せな人生のようにも思います。しかし、間違えてはいけないのは、それは彼らの個人的な信念を貫く幸福感のうえに成り立つものです。増やせば「超人」も増えるのではないか、という期待感も介入しがちですが、資格業のあるべき論につなげることは、一般の弁護士たちにとってだけではなく、結局、弁護士という資格が成り立つ基盤を根底から揺るがし、そして私たちにとって有り難いはずの、彼らの「信念」も絶滅に導くということは分かっておく必要がありそうです。
「彼らは尊敬できる。でもどの弁護士もが、彼らのような『超人』になれるわけではない」
同業者のそうした声は、当然、利用者市民の過度な要求につながることを懸念するものといえます。彼らのような「超人」が、弁護士の鏡であり、あるべき姿のようにとらえられれば、即座に「なんであなたはそれをやらないのか。やっている弁護士もいるじゃないか」という依頼者市民の声が返って来るのではないか、そういう声につながるのではないか、というおそれです。
しかし、もともとそれは現実的に無理といわなければなりません。資格業として成り立たせ、普通に生活をして、家族も養う、そのなかでゆとりや豊かさも求める。そういう前提でない人だけが、弁護士になるなどということは、過去においてもない。いかに人権の擁護と社会正義の実現を使命にする資格であっても、「超人」「奇人」だけが務まる仕事という話はどこにもないのです(「弁護士『薄利多売』化の無理と危険」)。
もっとも、かつてと違うところもう一つ挙げるとすれば、「超人」も「超人」予備軍の人材も、「改革」によって、かつてよりも生きづらく、生まれづらくなった、ということはいえるかもしれません。おカネをとらない弁護士たちが、何で生活できているのかには、そもそも個々人の一般化できない事情や有利な条件がある可能性もあります。しかし、それを脇においても、増員政策による弁護士の経済的激変は、彼らの信念を貫けるだけの、最低限の経済的余裕も奪っていることは考えられます。
どこまで耐えられるかは、それこそ彼らの信念と価値観に委ねられることですが、依頼者市民にとっては、それこそ手を合わせたくなるような彼らの信念を、貫き難くする方向、いわば足を引っ張る方に、「改革」が作用していることは十分に想像できることです。
もう一つ、メディアの取り上げ方に関係して、同業者の不安をかき立てている事情を付け加えておく必要があります。それは、日弁連・弁護士会主導層の姿勢が、自己犠牲を前提にしている弁護士像を、弁護士法1条の使命の先に、理想としているように見えることです。そして、それは個々の普通の弁護士として、決して有り難くないアピールを社会に対してしているのではないか、ということです。
採算性ではなく、あるべき論を前提に、弁護士のニーズを考える。まさに増員政策の失敗につながった発想は、基本的に変わっていないのではないか、と。強制加入でありながら、会費が個々の弁護士の業務にプラスに跳ね返ってきているという実感できない現実につながっているものです。そして、そうした主導層の弁護士自身は、必ずしも「超人」ではない、という事情も付け加わっています(「問われる弁護士会主導層の現実感」 「日弁連の『改革』の発想と会員の『犠牲』」)。
市川弁護士の記事のなかに「絶滅危惧種」という表現が出てきます。昔も今も彼らのような弁護士は「絶滅危惧種」だったというべきです。また、彼らのように生きて、信念を貫き、感謝されることは、遠藤弁護士に感じたように、傍目にもそれは幸せな人生のようにも思います。しかし、間違えてはいけないのは、それは彼らの個人的な信念を貫く幸福感のうえに成り立つものです。増やせば「超人」も増えるのではないか、という期待感も介入しがちですが、資格業のあるべき論につなげることは、一般の弁護士たちにとってだけではなく、結局、弁護士という資格が成り立つ基盤を根底から揺るがし、そして私たちにとって有り難いはずの、彼らの「信念」も絶滅に導くということは分かっておく必要がありそうです。



