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- 2019年08月26日 17:12
「超人」弁護士たちへの目線
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おカネをとらずに、弁護を引き受ける弁護士がいます。私が尊敬している故・遠藤誠弁護士もそういう人物でした。おカネのない、闘う市民の弁護は、タダで引き受ける。仏教者であり、左翼であり、革命夢想家であった彼は、あくまで本業はそちらの方で、「人権派弁護士」を自認しながらも、「弁護士はあくまで余技、趣味」とまで言い切っていました。
彼との思い出、というよりも、彼の存在と生きざま自体が、今でも強烈に私のなかに焼き付いていますが、彼は自分のスタンスについてこう語っていました。「革命でも法律でも救済されないものがある。そのために仏教が必要なのだ」と。彼は、自らの思想を、釈迦とマルクスを信奉する「釈迦マル主義」であるとも、真剣に主張していました。
「奇人」と言われていましたが、彼には幅広い分野の熱狂的なファンが沢山いました。左翼・右翼活動家、仏教をはじめとする宗教関係者、メディア関係者、彼が主宰する仏教の会でつながる市民たち、日弁連会長経験者を含む法曹関係者などが、時々開かれる彼を囲む会に集まり、彼を持ち上げたり、こけ降ろしたりするのを、いつも末席で見ていた私はつくづく、彼は多くの人に愛され、幸せな人だなあ、と思ったものです。
そして、その集まった人々の中には、いつも前記彼の信念に基づき、弁護士としての彼に救われた市民が、まさに手を合わせるように彼に感謝の言葉を述べる姿もあったのでした。
彼はこう語っています。
この記事の中で登場する、同業者をはじめとする関係者の声を見ても分かるように、市川弁護士も遠藤弁護士同様、「奇人」の部類に属するという扱いです。一般的な資格業としての弁護士とは、別の、あるいはそれを上回る「価値」を見出している個人的な信念がなければ、彼らのようなことはできないし、彼らの領域に達することはできない(遠藤弁護士にとっては、本業ですらなかったのですから)。
だから、逆に彼らのような姿勢を、弁護士業という資格業に求めるというのは、違うというべきなのかもしれません。別の言い方をすれば、資格業たる弁護士から入って、彼らのような人材に辿り付くのは、ある意味、昔も今も無理があるといわなければならないように思うのです。
彼との思い出、というよりも、彼の存在と生きざま自体が、今でも強烈に私のなかに焼き付いていますが、彼は自分のスタンスについてこう語っていました。「革命でも法律でも救済されないものがある。そのために仏教が必要なのだ」と。彼は、自らの思想を、釈迦とマルクスを信奉する「釈迦マル主義」であるとも、真剣に主張していました。
「奇人」と言われていましたが、彼には幅広い分野の熱狂的なファンが沢山いました。左翼・右翼活動家、仏教をはじめとする宗教関係者、メディア関係者、彼が主宰する仏教の会でつながる市民たち、日弁連会長経験者を含む法曹関係者などが、時々開かれる彼を囲む会に集まり、彼を持ち上げたり、こけ降ろしたりするのを、いつも末席で見ていた私はつくづく、彼は多くの人に愛され、幸せな人だなあ、と思ったものです。
そして、その集まった人々の中には、いつも前記彼の信念に基づき、弁護士としての彼に救われた市民が、まさに手を合わせるように彼に感謝の言葉を述べる姿もあったのでした。
「『お金のために、というのは僕の生き方じゃない』 北海道の山奥に移住、費用ゼロで公権力に挑む”山小屋弁護士”」こんなネットニュースの記事が、最近、ネット界隈の弁護士の間で話題になりました。ここに登場する市川守弘弁護士も、思想的な背景が同じかどうかは分かりませんが、遠藤弁護士同様、自らの信念に基づいて、弁護士費用を受け取らとらずに弁護を引き受けるタイプの弁護士として紹介されています。
彼はこう語っています。
「極力経費は落としちゃって。食っていければいいんだから。その代わり、意味のある公益的な事件は率先して弁護士費用なしで取り組めたら、僕の残りの人生、生きがいがあるんじゃないかなあと」ここでやはり二つのことを、あえて確認しておかなければならないように思います。一つは、弁護士界には、昔から業界内でも話題になるような、時に清貧という言葉をあてがわれるような、彼らのようにおカネ度外視、経済的成果度外視の、信念に基づいて闘う弁護士がいること。そして、もう一つは、それは昔から決して一般化できない、絶対的にレアな存在であったこと、です。
「昔ながらの戦後の日本の経済成長と同じで、地域社会がしわ寄せを受けながら、儲かるところが大きく儲かっていこうという、その構図が現代においても典型的に現れている。これは正義に反する、アンジャスティスなんですよ。こんなのは許せない」。
「弁護士である前に一市民であると思っているし、市民として行動するときにたまたま自分が弁護士という職業についているんだから、その職業についていることを市民として生かせればという風に思っている」
この記事の中で登場する、同業者をはじめとする関係者の声を見ても分かるように、市川弁護士も遠藤弁護士同様、「奇人」の部類に属するという扱いです。一般的な資格業としての弁護士とは、別の、あるいはそれを上回る「価値」を見出している個人的な信念がなければ、彼らのようなことはできないし、彼らの領域に達することはできない(遠藤弁護士にとっては、本業ですらなかったのですから)。
だから、逆に彼らのような姿勢を、弁護士業という資格業に求めるというのは、違うというべきなのかもしれません。別の言い方をすれば、資格業たる弁護士から入って、彼らのような人材に辿り付くのは、ある意味、昔も今も無理があるといわなければならないように思うのです。



