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3.11以後の世界とSF第一世代の可能性(1) 新城カズマ×稲葉振一郎×田中秀臣

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想像を超える自然災害、急激に変貌する経済の動向、日常生活が直面する先の見えない不安。東日本大震災以後、私たちの想像力と論理的思考の成果と限界とが問われて続けている。

SFというものは、人間の思索(Speculation)の限界に挑戦し、その限界を拡張する試みだといわれている。例えば、多くの日本人は日本を代表したSF作家小松左京の『日本沈没』のエピソードのいくつかを、今回の大震災においても想起したに違いない。それは小松の世界観の強度を改めて私たちに認識させると同時に、また私たちが(小松でさえも予想しなかったような)新しい環境に直面していることをもいやでも認識する出来事だったろう。

今回の座談に集まった私たち三者は、小松左京を中心に、日本のSF「第一世代」といわれる作家たちの業績を振り返り、その3.11以後における想像的可能性について語り合った。作家、社会学者、経済学者と専門とする領域は異なるが、それぞれがSFの想像力について期待する点では一致していた。日本のこれからの文化と社会を考えるうえで、SFがどのような役割を果たすのか、その極限について明らかにしたい。(構成 / 田中秀臣)


リンク先を見る3・11の未来――日本・SF・創造力
著者:小松 左京
販売元:作品社
(2011-08-26)
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■SFの「実践的」な可能性

田中 僕の周りでも新城さんのファンの方が多いですし、僕も長い間ご著作を拝読してます。去年出た『3.11の未来』で、僕はたぶん追加メンバーで、依頼があって締切まで一ヶ月なかったんですよ。しかも初めて書くSFの原稿で、一体どれだけ難易度の高いことを依頼するのかと(笑)

新城 『3.11の未来』はほとんど突貫工事だったと伺っています。地震の後でやったわけですからね。

田中 当時、震災関連の本がたくさん出て、SFでも小松左京関連が出るのではないかと思っていました。小松さん自身は書くことができなくなっていて、よく存じ上げないんですが、何年間も書けない状態が続いていたんでしょうね。

新城 調子のいい時と悪い時があったという話は伺いました。調子がよくても昔みたいに根を詰めて作業はできなかっただろうなと思います。

田中 それまで小松さんの作品はいちファンとして読んでいたんですけど、この本の原稿を書くために読めるだけ読んでみたんです。90年代の阪神淡路大震災の『小松左京の大震災'95』以降、小松さんの創作意欲がほぼ無くなってしまっていて、肉体的にも精神的にも震災が彼の創作意欲に与えた影響は大きかったと思います。昨年の終わりに僕と山形さんと稲葉さんでやったSFトークイベントでも話題になったんですが、小松左京の阪神淡路大震災のルポが率直に言って全然面白くないんですね。

当時、政府の初動の遅れが指摘されていましたよね。村山内閣があまり大したことないと当初は認識して、危機管理対策なとの対応が遅かったです。まあ、いまの方が遅いんですが。そうしたことに対する批判を小松左京はするのかなと思ったら、全くしないんです。小松左京の震災論でクローズアップされているのは地震の違いです。彼が扱った『日本沈没』では、プレートの動きによって日本全体が動くという話でした。ところが、阪神淡路は局地的で限られた地域に激震をもたらしたんです。

阪神淡路ルポは、そうした地震のタイプの違いに着目して、学術的に追うという話なんです。これを一年近く続けて、ある種の学会ウォッチング・政府の地震見解のウォッチングになってしまっています。今回の震災でもそうですけど、震災を扱う話としては、いかにコミュニティや社会インフラを復興させるかという話が出てくるんですが、小松さんの場合は、地震のウォッチになってしまっている。そういう意味では、実践的ではなくただ地震のレベルに驚いていると言えると思います。

新城 これは新聞連載ですか?

田中 そうです。初期の頃は週一で連載されてました。

新城 体調の問題もその頃からあったんでしょうか。『日本沈没第二部』は一応共著で出してますけど、『虚無回廊』は連載をまとめたんですよね。

稲葉 確か、こないだ出た定本を見たら、『虚無回廊』の第三巻が2000年で、それ自体『SFアドベンチャー』(*1992年3月号で終了)に載ったものなので90年代初頭のものですね。

田中 小松左京は失われた20年には、ほとんどコミットしないまま亡くなってしまった。新城さんのエッセイでケインズの話が出てますよね。この20年でどういう風に経済学者が変わったかというと、やたら実践を意識しはじめたわけです。誰がどう見ても長期で停滞が続いているのはおかしい。「優秀」な官僚や経済学者がこんなにいるのにこれはおかしいと誰でも思うわけです。そこで調べてみると、政策的な問題があるということに僕と違う立場の人も気づくわけです。結果、実践的な関心が芽生えてきた。

こういった実践的なアカデミズムの変容が、マージナルな場所で起こっていた。その中で、社会とか経済が長期に停滞すると、総体で物事を見ないと実践的なことがなかなか言えなくなってしまう。今日の話で言えば、みんながミニ小松左京にならないと、実践的なことが言えなくなるという状況になっていると思います。

東浩紀さんがいますよね。僕の印象ではもっとも実践的な問題に縁遠いと思ってましたが、彼も『思想地図β』をみると実践的なことを言ってます。みんなこの20年で「実践する」こと、というのを嫌でも意識するようになってしまった感じです。

新城 実践というのは、政策に反映されるという意味で?

田中 そうです。政治と文学というのが東浩紀さんや宇野常寛さんたちのテーマだと理解しています。その文脈の中で猪瀬直樹東京都副知事や村上隆さんたちとのコラボレーションも増えているのでしょう。21世紀のはじめに柄谷行人さんが今の文学には政治へのルートはないと言い切っていましたが、今の東浩紀さんのやっていることは文学の政治へのルートの確保に見えるんです。

同様に、僕がSFに見出しているのは、実践的な関心を拾うちょっとバイアスがかかった見方ですね。さきほど言及した年末トークイベントでもそうだったのですが、どうしても社会政策的な生存の問題に注目してしまう。人類滅亡だとか環境の根本的な破壊とか破滅テーマが多いですけど、僕はそれに惹かれるんです。そうした環境の中でどのように人類の生存が計られているのか。これには2つのパターンがあって、1つはクラーク的に、人類がガラリと変化してどこかへ飛んでいくというパターン。もう1つは、絶滅的環境の中でみんな不平不満を言いながら結局、絶滅してしまうかもしれないけど生きながらえていくという、漫画版『風の谷のナウシカ』みたいなパターンです。僕はどちらかと言うと、前者より後者にSFの可能性を見出しているんです。

新城 可能性を見出すというのは、今後そういうのが多くなっていくだろうという意味でしょうか。

田中 そうですね。バラードの『スーパーカンヌ』とか『殺す』とか作品的には面白くないですけど。それを面白く書くこともできるんではないかと。昔の『1984』とか『素晴らしき世界』のようなはっきりとしたユートピア否定論ではなく、マクドナルトのように長居できない設計をしたり、絶えず路上をカメラが監視することでマズイ人間を排除していくというような、そんなSFが増えていくと面白いと思う。


■「物語」の経済学

稲葉 田中さんが新城さんにお話を伺おうと思ったのは?

田中 単純にファンですから。今回『3.11の未来』で書かれた中で会いたい、と思ったのは笠井潔さんか新城さんしかいません。そこで新城さんが展開されたテーマは時間をコントロールするという経済学の話ですよね。時間をコントロールするということを意識的にやっている学問は経済学だけなんです。物理学とか理工系はおいておきますけど。社会学ではそんなことを考えもしないと思います。インフレ目標というのは、人間の時間に対する感覚をコントロールするということなんですね。新城さんの作品では、、最初の『蓬莱学園』でもマネー的要因と時間の経済を論じているなと思っていて、そんな作家の方はほとんどいないんです。新城さんは一貫して経済的なテーマを扱っている日本では希少な作家だと思っています。

稲葉 ライヌンガムのタイムトラベルの不可能性(* Marc R. Reinganum, 1986, “Is Time Travel Impossible? A Financial Proof,” Journal of Portfolio Management 13(1): 10-12.)の話があるんですが、彼はファイナンスの人で、タイムトラベルは不可能であると証明したんです。なぜかというと、タイムトラベルが可能であれば競馬の予想も金融市場の予測もできるので、裁定機会があっという間にとりつくされ利子がゼロに収束するはずなのになっていない、だから不可能であると。証明ではないんだけど。

新城 宇宙人がまだ来ていないのは・・・という、例の論理と似ていますね。

田中 あと新城さんの『物語工学論』も面白いですね。物語の経済学というのが、経済学のわりと最先端の話題なんです。日本のサブカルチャーだといまさらという感じかもしれませんが。ノーベル経済学賞をとったトマス・シェリングという人がいて、彼はキューブリックの『博士の異常な愛情』のアドバイザーをやった人なんです。普通、経済学者はモノやサービスの選好を論じるんですが、彼は心の中の消費を論じるんですね。例えば、「名犬ラッシー」を観た多くのアメリカ人は名犬ラッシーがあたかも現実に存在するかのように消費した、そうした心の消費が重要なんだということを彼が最初に言ったんです。

それをタイラー・コーエンという経済学者が、物語の消費という形で拡張していったんです。リーマンショック以降、ブログだとかツイッターだとかの利用が増えた。そこで人々が何をやっているかというと、物語を生み出して消費するという、生産と消費がイコールな世界が広まっていった。これのベースが物語の消費であるわけです。そうした色んな人の物語と自分の物語が接続してネットワークを作り大きな物語になるということを彼は示唆しているんです。

また、物語というのは欲望のストッパーにもなるんです。普通、モノを消費するときのストッパーは金銭ですよね。だけど、心の中は一見すると無制限のように見えるけれど物語がストッパーになっている。つまり、これだけは自分の価値観では受け入れられないと人は思いますよね。自分の人生をひとつの「物語」として人は把握していて、その「物語」からなかなか自由になることはできない。しがらみや過去へのとらわれ方も物語の欲望がストッパーになってしまう。

つまり、人間のアイデンティティとか、この一線は譲れないというのは、自分の物語から出ているのではないか、物語が欲望のストッパーになっているのではないか、という話を経済学者はやっているんです。僕が書いた小松左京論はそういった物語の経済学を小松左京に見出していこうというつもりだったんです。昔から、内田義彦などの経済学者は文学との接点を求めてきました。、文学というのは、市場の無意識の塊なので前衛であると考えられて、そことの接触が経済学にプラスをもたらすというのが内田義彦のスタンスなんです。


■新城作品の批評性

稲葉 新城さんの作品は『サマー/タイム/トラベラー』しかフォローできなくて、もちろん『蓬莱学園』は存じ上げてはいたんですけど。あれはいつ頃からですか?

新城 最初のゲームは90年で、小説版が91年からですね。最初のゲームの後はテーブルトーク版を出しつつ小説も、というのが90年代半ばくらいまで続いきました。

稲葉 オンライン化の話は?

新城 当時はインターネットもなかったので、紙媒体・郵便媒体でやるしかなかったんですが、90年代後半くらいに携帯ゲームかなんかでやれませんかという話があって、でもそれはどうこうなるという規模ではなかったです。今はSNSとかUGCとかいう言葉があるので、あぁそうだったんだと分かるんですけど、当時は自分たちが何をやっているのか分かっていなかったというのが正直な所で、紙メディアで可能なおもしろいことをやっていた、というくらいです。

稲葉 『蓬莱学園』のマスターだったというのはつい最近知って驚いきました。僕はTRPGは触ったことがないので分からないですが、そういうものがあるということは認知してはいました。電子化される以前のネットワークゲームのパイオニアに新城さんはなると思うんですが、そのころから20年くらい第一線で活躍していて、そこからしか見えないものがきっとあるだろうなと思うので興味を持ちました。

もう1つ、『サマー/タイム/トラベラー』は長い経験に基づいて批評的に組み立てられた作品だなという印象があります。それ以前に長谷川裕一さんのまんが『マップス』へのトリビュートアンソロジー『マップスシェアードワールド』を拝読していて、あの中で、他のみなさんが直球を投げている中、一人新城さんがビーンボールを投げて長谷川さんに喜ばれたというのがありますね。

田中 稲葉さんは長谷川裕一論(『オタクの遺伝子』)を書いていますね。何であれが出たのかすごいよね。

稲葉 誰が得すると言われても誰も得してないというか。装丁家のミルキィ・イソベは得したという話ですが。長谷川裕一という人はライターズライターという印象があって、トリビュートに参加している作家のみなさんは、失礼ながらどちらかというとマイナーな ―― マニアックな方々だけれど、イラストでピンポイント参加しているまんが家の皆さんは村枝賢一とか三浦建太郎とか、メジャーシーンで知られている錚々たるメンバーです。あと、長谷川裕一ファンを自称している人は意外とそこここに存在していて、たとえば奈須きのこさんもそうなんですね。

奈須さんといえば、シナリオを手掛けられた『Fate/stay night』(2004年)のプロットがほとんど長谷川さんの『クロノアイズ・グランサー』(2003年)とのそれとほぼ重なっていて、ちょっとパクリじゃないかと思ったくらいです。ただ、この件についてはちゃんと制作の時系列を確認した方がおられて、タッチの差でパクリにはなっていないと判明したんですが、それにしてもほぼ同時期に「最大の敵は主人公の未来の姿だった」というプロットが使われていたことになります。あれが無意識で行われていたとしたらシンクロナイゼーションがあったんだと思います。

新城さんはこれまで2巻出た小説版の『シェアードワールド』に1本ずつ、計2本書かれていましたよね。1つは『マップス』世界の構造を外から俯瞰するというか、物語の外側に出て、『マップス』物語の展開するその前の宇宙の、そのまた前の宇宙でどんなことがあったのか、について神話的に描かれたものです。

もう1つは、最後の数ページがなければリアリズムの青春小説として普通に完結するのに、その最後緒の数ページの力技で無理やり『マップス』世界の中に押し込むというものですね。『マップス』の物語が始まるさらに前、映画『スター・ウォーズ』公開の時代に田舎の高校生たちのロケット遊びを、大人になって銀河文明との接触を横目に回想する。そうやって『マップス』の物語世界と僕たちが生きているこの現実世界を接続するという、非常にメタフィクショナルな一編です。そういう批評的なところを礼賛するのは大人気ないといえば大人気ないですけれど、お話として面白いと思うんです。

また『サマー/タイム/トラベラー』もメタフィクション、作品それ自体でもってSFというジャンル、形式に言及するメタSFですよね。普通のタイムトラベルSFの基準的主題は、何と言っても「過去に戻る」なんですが、この物語の主人公たち、そこでの時間旅行者自身は過去には行かないわけです。タイムトラベルの物語的謎や神秘を、「過去に戻る」ことではなくて「一時的にではあれこの宇宙の外側に出る(ことによってエネルギー保存則その他を破る)」、というところに位置づけています。これがちょっと異例。

それからこの作品は、同時代だと阿部和重の『シンセミア』とテーマを共有しています。2000年代に日本の小説の世界では、「取り残された地方」が好んで主題化されましたが、本作はそういう意味での、現代的地方小説として読むこともできます。ただ、2000年代の小説ではあるのだけれど、それにとどまらない違うニュアンスもあります。

第一にこの小説には、ことにタイムトラベルのイメージは、ジャック・フィニイのそれによって支配されている。さらに第二に、そこに隠し味として内田善美をお使いになっておられる。フィニイのハヤカワ版の『ゲイルズバーグの春を愛す』の表紙は内田善美さんが描いておられて、何十年も変更されてないですよね。しかしそれ以上に重要なのは、この物語は、信州の名門高校の秀才たちの話なので、まさに内田さんの『空の色に似ている』の本歌取りですね。

新城 まさにその通りですね。

田中 なんでそんなに知ってるんだ!(笑)

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