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裁判員制度 民事・行政事件にも?

東京新聞が、社説で、裁判員制度について論じています。
裁判員制度3年民主主義の学校になれ」(2012年5月21日配信)

元裁判官の木谷明さんのコメントを中心にした解説が掲載されています。

「「刑事裁判が国民に近いものになり、関心が高まったことは大きなことです」と、元裁判官である木谷明さんは語った。
「裁判がビジュアル化され、口頭でのやりとりが徹底されたことで、誰が見ても理解されるようになったことも良い点でしょう」」


この程度のことが利点とされてしまうこと自体、どうかと思いますが、それはさておくとして、木谷氏の問題提起は、以下のように続きます。

無実の人を罰することは何を意味するか。木谷さんはこう考えた。

「無実の人を罰することは、不正義である。無実の人を罰すれば真犯人を取り逃がすことにもなり、二重の意味で不正義となる」

市民が入ることで刑事裁判に風穴があくのではないか。多様な価値観で事実を見極めることが望ましいのではないか。これが制度の大きな眼目であったはずだ。

確かに法廷の様子は激変した。木谷さんは、そのことを評価しながらも「裁判官が本当の意味で謙虚になったといえるかが問題」と問いを投げかけている
。」

ここで述べられた「市民が入ることで刑事裁判に風穴があくのではないか。多様な価値観で事実を見極めることが望ましいのではないか。これが制度の大きな眼目であったはずだ。」が木谷氏の発言なのか、この社説を書いた論説委員の発言なのかは、前後の脈絡からはよくわかりません。

この「眼目」は、誤判防止の流れの文脈の中で語られていますが、明らかな誤りです
あくまで裁判員制度の目的は、国民を裁判に強制的に動員することにより、①国民に統治意識を持たせること、そして②司法の信頼を強固なものにすることにあります。
従って、誤判防止を目的に、裁判員制度の創設は提言されていませんし、制度設計などもされていません。

出発点からして、東京新聞の社説(木谷氏の発言かどうかはわかりませんが)は間違っています。

冤罪防止が目的であるならば、裁判員制度は即刻、廃止すべきです。

木谷氏が、

裁判員の都合を考慮するあまり、審理を急ぎすぎていないか。評議にもっと時間をかけるべき事件があるのではないか。争点を絞り込む公判前整理手続きで予備知識を得た裁判官が筋書きを立てて、裁判員を誘導しているように見える事件も散見される

と述べていますが、裁判員の都合を最優先にすることは、当初から言われていたことであり、裁判員制度の制度設計からは当然の帰結なのですから、これが疑問であるならば、裁判員制度など廃止すべきなのです。

木谷氏は、裁判員制度を誤解していないでしょうか。元々、国民は裁判員などやりたくないというのが圧倒的多数で、しかも、仮に裁判員をやるにしても長期は困る、というのが国民の声でした。だから、それに合わせた制度設計になっているのであって、今さら、「裁判員の都合を考慮するあまり」などと言ってはいけません。あくまで裁判員制度に内在する問題なのです。

その後に述べられている東京新聞の社説は、

取調全過程の録画、証拠全面開示

の問題は、裁判員制度とは別に実現しなければならないものです。このような論旨の流れになったのは、この社説が裁判員制度の目的を取り違えているからです。

それにしても、裁判員制度を「民主主義の学校」というのはいかがなものでしょうか。

民主主義については、義務教育や高校での教育を通じて学ぶべきものです。

それが何故、刑事裁判を通じてということになるのでしょうか。しかも、国民全員が経験するわけでもありません。

しかも刑事裁判がお勉強の場ということ自体が裁判に対する無責任そのものであること、剥き出しと言わざるを得ません。

また、裁判員になることによって、民主主義をどのように学ぶのかも理解できません。

同社説は、米国の陪審制度を引き合いに出し、

十九世紀のフランスの政治思想家トクヴィルは「アメリカの民主政治」(講談社学術文庫)で、陪審制度を「人民の審判力を育成し、その自然的叡智(えいち)をふやすように役立つ(中略)無料の、そして常に公開されている学校のようなものである」と看破した。

民主主義の学校−。確かに市民の司法参加は、もっと潜在力を秘めている。トクヴィルは陪審が民事にも拡大されるとき、生活の慣習にまで入り込み、「正義の理念と結合する」とも述べた
。」

だそうですが、行き着く先が米国のような「民主主義」のような惨状であるならば、「学校」とはほど遠いと言わざるを得えません

最後に同社説は、

民事にも拡大すると刑事裁判に限らず、民事訴訟や行政訴訟にも、市民が加わることを検討してはどうか。

原発の稼働問題や一票の格差問題…。国民生活や民主政治に直結する、さまざまな難題が裁判所に持ち込まれる。ここに市民の良識を活用すれば、お互いに公共心が培われ、民主主義の基盤をつくる「みんなの学校」となろう
。」

ということですが、民事訴訟や行政訴訟に、市民が加わるなどという発想は、より一層、問題を内在しています。

原発の問題も地元では賛否の分かれている問題であり、そのような「民意」がそのまま裁判に流入してくることになります。

これが、あるべき裁判であろうはずがありません。

それが現在の裁判員のように抽選で決まるとするならば、その裁判員が「公正」に判断しうるかどうかを選任の段階でどのように見極めるのでしょうか。

そればかりか、例えば原発差し止めを認めるか否かについて、多数決ということになれば、そこには法に基づく裁判という概念は存在し得なくなります。単に原発に賛成か反対かが問われているのと同じです(もっとも、単に結論に固執しているだけということであれば、「公正」を害する者として解任されるでしょう。)。

ところで、原発差し止めについて、どちらの結論を導くかの法解釈が刑事事件の裁判員制度と同様、裁判官の専属する権限とするならば、人格権に基づく差し止め請求など、憲法判断に関わるようなものであれば裁判官の専権事項となります。

そうではなく、それも含めて裁判員の権限でもあるというのであれば、もはや法原理に基づく裁判ではなく、原発に賛成か反対かだけの裁判にならざるを得ません。

このような問題は、原発だけでありません。米軍基地問題もそうです。沖縄では県民を二分しているような問題を、その地元住民が「裁判員」として参加することが司法を本当に機能させるのかどうか、疑問と言わざるを得ません

もちろん権力側が、民事、行政事件について裁判員制度を導入することはないと思います。

仮に間違って安保条約が違憲などという判決が出ても困るからです。上級審でひっくり返るでしょうが、だからといって敢えてそのような危険を冒す必要はありません。

導入を求める側が、だから導入すべきだと主張するのであれば、それはあまりに短絡的といえます。現状の裁判所では、そのような積極的な判決は出さないであろうから、裁判員制度の導入だというのであれば、単なる一か八かの賭け事のようなものになってしまいますし、何よりも、裁判員裁判による判決だけで、現実に米軍基地を撤去できようはずもないからです

同社説は、「市民の良識」とありますが、「良識」だけが存在しているわけではありません。刑事裁判以上の「利害」も存在していることを忘れてはなりません。
私が、「刑事事件よりも、民事、行政事件にこそ裁判員制度を導入すべきだ。」という主張に賛同し得ないのは、以上の理由です。

ましてや「刑事事件だけでなく、民事、行政事件にも裁判員制度を導入すべきだ。」という主張には、なおさらのこと反対です。

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