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「鈴木貫太郎親衛隊」陸軍クーデター部隊と攻防 70年目の証言“黒幕”は四元義隆 下

鈴木貫太郎首相(在任時)出典:国立国会図書館

出町譲(経済ジャーナリスト・作家、テレビ朝日報道局勤務)

【まとめ】
・陸軍分隊が官邸に押しかけ、鈴木貫太郎首相暗殺を宣言。
・首相の私邸に親衛隊が急行。偶然が重なり、間一髪脱出に成功。
・首相も親衛隊も「戦争を終わらせるため」に命を懸けた。

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そして日本の運命が決まる昭和20年8月14日。御前会議で、天皇陛下はポツダム宣言受諾を最終決定した。すべての閣僚が終戦詔書を署名したのは、午後11時すぎになっていた。その後、日本政府は、連合国側にポツダム宣言受諾を伝えた。

▲写真 ポツダム宣言受諾による降伏を決めた御前会議(1945年8月14日)出典:パブリック・ドメイン

北原は1日中、貫太郎のそばに張り付いていたが、官邸で書記官長、今でいう官房長官の迫水常久と出会った。迫水の耳元で、「今晩陸軍が蜂起し、官邸を襲うという情報が入っています」とささやいた。迫水は北原に本音を漏らした。「今日は総理の私邸に行かずに一緒に泊まっていただけないか」。北原はむげに断るわけにはいかない。総理官邸でしばらく過ごすことにしたが、朝まで総理を放置するわけにはいかない。迫水には、「午前4時に車を用意してくれませんか。その後は、総理の私邸に向かいます」と言った。

▲写真 迫水常久内閣書記官長(1960年代頃撮影)出典:パブリック・ドメイン

しかし、迫水と約束したのに、車は来ない。何かの手違いか。北原は苛立ったが、何より、貫太郎の私邸に駆け付けることが先決だ。そこで車を借りるため、長松らを連れ、桜田門の警視庁に向かった。

長松は途中、官邸の門で、陸軍の一個分隊10人の姿を見た。軍人たちは「への字」の形で並び、いつでも銃弾を撃てるように準備していた。北原は長松に対して「よそ見をせずまっすぐ歩いてついて来い」と指示した。この陸軍の分隊は、東京警備局横浜警備隊長佐々木武雄が率いており、横浜高工の学生らも参加していた。佐々木は官邸で警察官に拳銃を抜いて「国賊を殺しに来た。はむかうものはただちに殺すぞ」と言い放ち、貫太郎暗殺を宣言した。それに対し、警察官は「総理はいま丸山の私邸に戻りました。あちらを襲撃すればいい」と告げた。当時の警察官は士気が落ちており、反乱軍から総理を守ろうという気概はなかった。

▲写真 旧首相官邸(現在は首相公邸として使用)に陸軍反乱軍が押しかけた。出典:首相官邸ホームページ

長松は気になって仕方なかったが、後ろを振り向かずに進んだ。警視庁に到着すると、北原は「俺は内閣のものだ。官邸が襲撃された。総理私邸まで車を出してくれ」と頼んだ。警視庁は事態が緊迫していることを察知し、すぐにガソリン車のオープンカーを用意してくれた。運転手は警視庁の関係者で、助手席には長松が座った。この運転手は幸いにも、総理私邸付近の地理を熟知していた。

ところが、車が二重橋前に差し掛かろうとした際、銃を持った兵士が「とまれ」と叫んだ。車は仕方なく、止まった。「ここから一歩でも動いてみろ。殺すぞ」。一人の兵士は、銃先を車に突きつけてきた。北原はふいに「右に回れ」と大声で叫んだ。車が急発進し、兵士たちは道を開けた。車はそのまま、フルスピードで総理私邸に向かった。この兵士たちは、その前に遭遇した部隊とは別だった。近衛師団所属の反乱軍だった。正午に放送される予定の「玉音放送」の録音盤を奪おうとしていたグループだ。

▲写真 玉音盤(副盤)。NHK放送博物館所蔵。出典:Wikimedia Commons;利用者:Sphl

北原は、この反乱軍が占拠している宮城前の広場を通るのは無理だと思い、宮城を逆回りすることにした。三宅坂、半蔵門から靖国通りに入り、九段を抜けて、小石川丸山町へ急行するルートだ。車が飯田橋まで来た際、付近で乗用車とトラックが見えた。三角青旗を立てていた。佐々木らの部隊はこの2台に分乗していた。一方、北原は警視庁の運転手に「なんとか、あの車より早く到着してくれ」とせっついた。運転手は裏道を猛スピードで走る。大塚仲町を経て、総理私邸に到着した。

ちょうどそのころ、鈴木貫太郎は私邸から脱出しようとしていた。官邸から、襲撃隊が私邸に向かっているとの電話連絡があったからだ。長松の目撃証言によれば、北原は貫太郎の私邸に到着し、土足のまま家の中に入った。そして、貫太郎の腕を引っ張って、玄関の外に連れ出した。高齢の貫太郎はやっと車に乗り込み、北原も同乗した。

ところが不運が起きる。ガソリンの質が悪く、エンジンがかからなかったのだ。長松は思い出す。「坂道だったのですが、親衛隊と警備の警察官がみんなで車を押してやっとエンジンがかかりました」。

ぎりぎりのタイミングで貫太郎は脱出できた。それは「偶然の産物」だった。

大通りを走っていた佐々木ら襲撃隊の車は、もうすぐそばにいた。しかし、大通りに面した総理私邸が質素なため、通り越していた。大通りの坂の上には、大きな豪邸があり、そこが総理私邸だと勝手に思い込んでいたのだ。

そして、もう一つの偶然が重なった。普段なら総理専用車は方向転換して大通りに面して駐車していたが、この日は、私邸に隣接する左折した道に頭から突っ込んでいた。そのため、総理専用車は裏道をそのまま進んだ。大通りを進んでいたならば、襲撃隊の車と鉢合わせとなった。

佐々木ら襲撃隊はタッチの差で、総理私邸に到着。「総理はどこにいる」と言いながら土足で私邸に上がり込んだ。そして、一部屋一部屋を押入れまでチェックし、そのあとガソリンをまいて、火をつけた。鈴木の家は全焼した。空襲にも焼け残った家が灰塵に帰した。消防団が駆けつけたが、「国を売った総理の家に水をかける義理はない」といって本気で消防活動に当たらなかったという。

長松は長い話に多少疲れたようだったが、私にもう一つ見せたいものがあると言って、仏壇の引き出しを開けた。そこには、古い色紙が入っていた。

「自彊不息(じきょうやまず)」。

それは鈴木貫太郎の書で、たゆまぬ努力を続けることの大切さを説いたものだ。鈴木貫太郎は終戦の後に、親衛隊のメンバーを官邸に呼び、一人一人に直接、色紙を手渡した。そしてメンバーに対し、「戦争が終わり平和になった。君たちは若い。これからの日本に平和が継続するために頑張ってほしい」と語ったという。

鈴木貫太郎は昭和11年の「2・26事件」の際、陸軍のクーデター部隊に襲われ、3発の銃弾を受けている。平和の尊さを最も痛烈に認識している男だ。死の直前「永遠の平和、永遠の平和」と繰り返し語った。

▲写真 鈴木貫太郎の墓。昭和23年4月17日「永遠の平和」の一語を残し、82歳で死去。出典:野田市ホームページ

長松はインタビューの最後にこう語った。「戦争は始めるのは簡単ですが、終わらせるのは大変なのです。鈴木貫太郎閣下も、四元義隆先生も、そして末端の私も、みな戦争を終わらせるのに命を懸けました」。

▲写真 長松幹栄氏 出典:筆者提供

戦後74年。今の日本の繁栄は、先人たちの命がけの行動が土台となっている。それを忘れてはいけないと思う。

の続き。全2回)

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