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「生きろ!」の嘘くささ~9.1と131人の10代の死

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■死ぬことが当たり前

哲学者のJ.デリダは、『声と現象』(声と現象)のラストで、さかんに死に言及し、死があってこその生だと繰り返し語る。難解な哲学書なので、これを読んだ若い頃の僕は、デリダが何を伝えたいのかよくわからなかった。

だが僕も55才になった。デリダが同書を執筆したのはたしか50才以前だと記憶しているが、たぶんデリダは、ありきたりの表現ではあるが、「生きていることの珍しさ」について言及していたのだと思う。

生きている我々にはよくわからないものの、たとえば20才まで生きるということは奇跡的なことだ。そのあいだ、児童虐待があるかもしれない、疫病が遅いかかるかもしれない、なんらかの事故に遭うかもしれない。それで残念ながら実際にいのちを落としている子どもたちはたくさんいる。医療が発達しようが、子どもは常に死のリスクに晒されている。

それは大人になっても同じだ。事故、事件、災害。たくさんのリスクに人間の人生は晒されている。幸いにして生き延びてきた人にはわからないが、いわば人は、

死ぬことが当たり前

だ。生きろ! なんて言われる前に、何らかの原因で死ぬ存在が人間であり生命だ。だから我々の社会には宗教があり文学があり医療があり、哲学がある。

■退屈なことば「生きろ!」

今年も9月1日がやってくる。今年は131人ではないだろうが、それに近い10代があちら側に逝ってしまうかもしれない。

アシタカがサンに言ったことば「生きろ!」は、アシタカが自分の命はどうでもいいからおまえだけは生きろ、というぎりぎりの決断のことばだった。

いま、大人たちがあたなたに言う「生きろ!」にはそんなギリギリ感はなく、単なる社会規範のひとつ(10代は死ぬべきではない)に従った退屈な言葉だと思う。だから、

そんな言葉(「生きろ!」)は信じてはいけない。

そんな言葉を発する大人は、嘘を前提に生きている。

まあこういう僕も嘘や偽善を仕方なく受け入れている。だからあなたは、大人たちの言うことには従ってはいけない。

まあ、強いていうと、ライ麦畑で遊ぶ子どもたち(ライ麦畑でつかまえて)、あなたより無垢(イノセント)っぽい存在(それは石でも構わない)、我々が「自然」と思う自然の外にいる山犬たちの存在、あなたが知らないであろう「君の知らない世界」の歌の意味(君の知らない物語)、その歌詞に出てくる、

「君」、

について想像してほしい。あなたとともに、オリオン座や夏の大三角を共有するであろう、「君」の存在について。やがてそんな「君」と出会うであろう、あなた自身の人生について。

※Yahoo!ニュースからの転載

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