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古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」と木村友祐さんの「天空の絵描きたち」に関して

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水上勉は参考文献として掲げたりはしないが(当時そんな習慣はない)、三島由紀夫の作品を意識していた。超有名な作品なので言うまでもない。というか、三島由紀夫の事件観・犯人観に反論するつもりで、水上は同作を書いた。三島は自分の「美」についての観念を作品に盛ったのに対し、水上は実際の犯人の生い立ちや内面を追った。

私が言う対話関係というのは、たとえばこういうこと。今回の古市さんと木村さんの二作について、両作を読んだ結果、私はこうした関係が発生しておかしくないと思った。つまり二人とも新自由主義的な格差社会の中において、東京を舞台にし、「ビルの窓ふき」という不安定な職業(立場、環境、収入など。象徴してる)の若者の関係性と内面を描いている。

古市さんの「百の夜は跳ねて」は、木村さんの「天空の絵描きたち」が提示したプレカリアスな状況の中で、誇りを持って働く主人公やその仲間たちという「職人」の物語について、なんらかの応答を含んでしかるべきだった。が私には、それが読めなかった。腹を立てた芥川賞の一部の選考委員たちにも、そうだったのではないかと推測する。

「百の夜は跳ねて」にとって「天空の絵描きたち」は、単なる便利に使った情報源の一つでしかなかった、というように見えるということである。

ただし、話をひっくり返すようだが、「情報源の一つ」として先行作品を使うことが、すなわちアウトということではない。

それは奥泉光さんが選評で言っていた、「小説はそもそも、すべからくパッチワークだ」(大意)ということに関わる。私はこの意見に同意する。だから、古市さんは「天空の絵描きたち」を単なる「情報の一つ」として使ってもいい。

問題はこの先である。じゃあパッチワークして何をどう書いたか?その質は?という話である。ちょっと辛口になってしまうけれど、私には「百の夜は跳ねて」はパッチワークの、それぞれの布片が、布片のままになりがちで、全体としての図柄が浮かび上がらなかったと思う。

もしも全体としての図柄の描画に成功していたら、おそらく同作は木村さんの小説とは、「モチーフこそ共通するもののまったく別の作品」として評価されていたと思う。

最後蛇足だが、私は古市さんの作品3作は全部読んでいるけれど、最先端的な固有名詞へのこだわりが強いんだよね。田中康夫「なんとなくクリスタル」的な方向を意識しているのかもしれないけれど、物自体が語るほど徹底していないから、どうも連発されるおしゃれ名詞が気になって仕方ない…。

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