1988年、埼玉県の路上で女子高生が拉致され、40日間にわたって足立区綾瀬で監禁されて暴行・強姦を受け続け、死亡。犯罪史上類をみない残虐な事件を週刊文春はどう報じたか。立ちはだかったのはやはり「少年法」だった——。
※本稿は、松井清人『異端者たちが時代をつくる』(プレジデント社)の第5章「『実名報道』影の立役者」の一部を再編集したものです。

「よし、実名でいく」
腕を組み、目を閉じ、顔を天井に向けたまま、編集長の花田紀凱さんはじっと考えていた。机の上には、一本の特集記事の最終ゲラが広げられている。
1989年4月11日火曜日の夜7時。翌々日発売号の校了は、この記事だけを残して、すべて終わっていた。記事の執筆を担当した勝谷誠彦君がやって来て、
「やめましょうよ。実名なんか出したら大変なことになる。絶対やめたほうがいいですよ」
と話しかけるが、花田さんは一顧だにしない。文藝春秋を退社後、コラムニストやテレビのコメンテーターとして活躍し、2018年に57歳の若さで亡くなる勝谷君は、当時まだ20代の編集部員だった。
犯罪史上に類を見ない、身勝手で残虐な事件を起こした少年たちの実名を出すか、イニシャルに留(とど)めるか、花田さんは締め切りギリギリまで決めかねていた。記事の担当デスクだった私は、黙って判断を待っていた。およそ15分が過ぎただろうか。とても長い時間に感じられた。
「よし、実名でいく」
と花田さんは言った。
殺人犯4人の名前を特定した粘り強い取材
私はすぐ席を立って、記者の佐々木弘さんが待機している会議室へ向かった。自分の仕事が終わったら編集部に長居することのない佐々木さんだが、この日は違った。犯行に関わった不良少年たちの中から、逮捕された4人の名前を特定できたのは、佐々木さんの粘り強い取材があったからだ。編集長に向かって、「こんなにひどい犯罪なんだから、実名を出すべきだ」などと進言する人ではない。その決定は編集長の権限とわきまえているから、わざと離れた会議室で待っていた。花田さんの判断を待つ15分は、佐々木さんにとっても長い時間だったに違いない。
「佐々木さん、実名でいきます!」
そう告げると、広い会議室にひとり、ぽつんと座っていた佐々木さんは、立ち上がって私に「そう! ありがとう」と言って、ぴょこんと頭を下げた。そして、
「よかった。これで被害者もお父さんも、少しは浮かばれるよ」
と、ほんの少し顔をほころばせた。
4月13日に発売された『週刊文春』4月20日号の特集記事「女子高生惨殺事件第2弾 加害者の名前も公表せよ!」では、
〈あえて実名を明らかにしよう。これまでに逮捕された殺人犯は次の4人である〉
として、18歳ひとり、17歳ふたり、そして16歳ひとりの実名を書いている。
ただし、4人はすでに刑期を終えているため、現在ではすべて匿名にせざるをえないことをお断りしておく。
鉄壁の少年法。大騒ぎになることは目に見えていた
リーダー格のA18歳は、私立高校を一年の三学期で中退。暴力団事務所にも出入りし、母校の中学校の窓ガラスを割って補導されるなどで「保護観察処分」の前歴があった。
B16歳は、中学校でAの二年後輩だ。工業高校を一年の二学期で中退。バイクの無免許運転で「保護観察処分」の前歴がある。女子高生の監禁場所となったのは、Bの自宅だった。両親は共産党員で、弁護士を通じた謝罪コメントを『赤旗』にだけ発表している。
サブリーダー格のC17歳もAと同じ中学校で、一年後輩。私立高校を一年の二学期に退学している。バイクの無免許運転で「保護観察処分」の前歴あり。
D17歳も、Aと同じ中学校の一年後輩で、工業高校を一年の一学期で中退。自宅で暴れて「保護観察処分」を受けている。
4人とも高校中退後は職やアルバイトを転々とし、地元では有名な手の付けられない不良グループだった。
当時の少年法はまさに鉄壁で、今では想像もできないくらい厳しく守られていた。週刊誌が実名を報道しても罰則こそないとはいえ、大騒ぎになることは目に見えていた。法務省は必ず問題にするだろうし、良識派や人権派といわれるメディアから袋叩きにあう事態も容易に想像できた。