記事

スポーツ界といういじめのエートスとその変化 昭和から令和へ

2/2
 永瀬洋三は水島新司の漫画「あぶさん」のモデルになったプロ野球選手である。酒豪で二日酔いでも活躍したため有名になったが、彼が有名になり、漫画のモデルになったことは「そういうことは、めったにおきない」レアケースであることの逆説的な証左である。

 健康に気を遣い、肩を大事にしたほうが野球選手の選手生命は伸びるし、活躍の可能性はより高まる。その証拠に、高校時代は完投、連投させるくせに、プロになったらそんなことはさせない。現在はさせない。

 時代は変わりつつある。日本はそれなりに「貧しくない国」になった。国は貧しくなくなったが、国内の貧富の格差は広がっていき、もはや国民みんなでスクラムを組んで前を向いて歩く、というエートスはなくなっている。美空ひばりのような国民的歌手もいなくなり、高倉健のような国民的スターもいなくなり、紅白歌合戦も大河ドラマも国民みんなで共有する「場」ではなくなった。良くも悪くもみんなバラバラなのが令和の時代だ。

 高校野球の人気を受けて、多くの高校スポーツは野球のマネをしようとした。冬の高校サッカーや春の高校バレーはそのようにして人気アイテムになったのだ。

 しかし、高校スポーツの人気はだんだん、相対的にだが、落ちていく。

 理由は簡単だ。高校スポーツのレベルが高くないからだ。少なくともプロに比べるとずっと落ちる。「やるスポーツ」としてはいいが、「見るスポーツ」としては物足りない。

 スポーツコンテンツはネットの普及とともに広がっていき、各自はトップクラスの「マイナースポーツ」を自由に楽しむことができるようになった。テレビをつけると巨人戦、な昭和な時代は終わり、ネットで欧州のサッカーを見たり、スヌーカーを見たり、ネットボールを見たりできるようになった。

 そもそも、高校生のスポーツは見られるために存在するのではない。やるために、本人たちのため「だけに」存在するのだ。存在するべきなのだ。当たり前の事実が、ようやく平成も終わりになって理解されようとしている。

 野球もまた例外ではない。佐々木投手の「非登板」が皆の理解を得ようとしているのは、そのためだ。

 はっきり言ってしまおう。夏の高校野球などは若者を犠牲にして炎天下の中で拷問的なスケジュールでの野球を強いて、これを日本中が注視して喜ぶ虐待的なイベントである。高野連や朝日新聞社、中継するNHKなどのテレビ局たちも「いじめ」の加害者だし、甲子園やテレビで声援を送るファンたちもその加害者だ。

 しかし、このいじめはあまりに加害者が多く、構造的で歴史的なために、そのいじめの構造に多くは気づかず、多くは必要悪と肩をすくめ、看過しているだけだ。

 夏の高校野球なんて止めてしまえばよい。多くは失笑するだろうが、ぼくは本気でそう思う。代替たるリーグ戦などを開催すればよいのであり、それも週1ゲームとかでよい。勝っても負けてもよい。十代の選手に完投させるなどもってのほかである(その点、大船渡高校の監督もまだまだ後進的なのだとぼくは思う)。

 もちろん、ぼくは高校野球が好きな人々の存在そのものは否定はしない。彼らはネットで、あるいは球場に行って好きな高校スポーツを愉しめば良い。しかし、選手生命を短くするような炎天下での連戦、連投を無理強いし、何かを犠牲にすることで自らの満足感を充足させるようなことはしないでほしい。そう思っているだけだ。

 プロになるようなレベルであれ、アマチュアレベルであれ、十代でスポーツを止めてしまう人はとても多い。

 野球などはまだましであるが、ぼくがやっていたサッカーなどは社会人になると止めてしまう人がとても多い。仕事が忙しい、ということもあるが、部活動のときの練習が厳しすぎて、大学に入ると「やめてしまう」のだ。あんなしんどいこと、もうごめん、というわけだ。

 かくいう僕も医師になってからはサッカーなどしなかった。ああいうきついスポーツは若いときだけだ、と決めつけていたのだ。しかし、ひょんなことからジョギングを始め、また偶然的にフルマラソンやトレイルラン、ウルトラマラソンをやるようになって「サッカーもできるんじゃないか」と思うようになった。2018年から、夜間の「大人のサッカー教室」でおじさんたちと(ぼくもだけど)ボールを蹴るようになった。

 50近くになってサッカーを再開して、いろいろ驚かされている。

 なんといっても、練習の質の向上が著しく、ほとんど浦島太郎のような心境でいる。

 分かりやすい一例を言えば、昔であれば「走れ、走れ。もっと頑張れ」という指導が多かったように思う。ところが、現在の指導だと「そこは、休んだほうがいいですよ。走ると、疲れますよ」と教えられるのだ。細かい背景因子についてはここでクドクド説明はしないが、要するにそういうことだ。

 かつてのスポーツ界では厳しい指導、厳しい練習が目的化していたところがある。野球やサッカーに限らず、どのスポーツでもそうだった。ラグビーの平尾剛さんのお話をよく紹介するが、だめなラグビーコーチは「疲れて動けなくなるまで練習する」のだそうだ。しかし、そういう練習をすると、選手はタフになるどころかどんどん体の動かし方が下手になる。「疲れて動けなくなる」が練習の目標になってしまい、一刻でも早く疲れて動けなくなるような、下手な体の動かし方をしてしまうからだ。

 このことは、練習を厳しくしてはいけない、とか動いてはだめ、という意味では決してない。その証拠に、前回のラグビー・ワールドカップでは、世界一タフで厳しい練習をやった日本代表が南アフリカに勝利するという史上最大のアップセットをやってのけた。要は、その厳しさが目的に合致しているか否か、である。

 目的。

 多くのスポーツ選手にとって、目標は長期的な選手としての大成にあるとぼくは思う。短期的な甲子園での活躍ではない。甲子園で活躍しても良いけど、その栄光を思い出に、野球をやめてしまうのはもったいない。一生野球を続ける、生涯スポーツを楽しむ人がもっと増えたら、日本のスポーツ界はさらに成熟する。そのように僕は思う。そこから逆算すると、高校時代に衆人のいじめ的な過酷なプレイを強いて、ましてや怪我のリスクも顧みないような昭和な高校野球のエートスは終わりにすべきなのだ。

 たしか、1991年のことだったと記憶するが、イングランド代表のサッカーの試合でエースだったガリー・リネカーが欠場した。妻の出産に立ち会うためだった。その話を聞いて、テレビを見ていたぼくは驚いた。当時の僕の感覚から言えば、「個人の事情」である妻の出産のために国際試合を放棄するなど、到底許容されないことだったからだ。しかし、BBCのアナウンサーも解説者もこれを当然のことのように伝えていたし、ファンもジャーナリストも別段、これを批判的にはみなかった(当時ぼくはマンチェスターに住んでいた)。

 2019年になって、ヴィッセル神戸のアンドレス・イニエスタがやはり妻の出産に立ち会うためにスペインに戻り、Jリーグを欠場した。ラージメディアもソーシャルメディアもこれを批判したものはなかったように思う。現在の僕は、もちろんイニエスタの判断を当然のことと思うようになった(まあ、ヴィッセルは貴重な勝点を落としてしまったけれど)。あれから30年近くたって、ぼくも日本社会もそれなりに成熟してきたのだ。

 もう一度いう。夏の甲子園は戦後日本社会の全体主義、スクラム主義の遺産である。それは歴史上、一定の役割を果たしてきたとは思うけれど、よくも悪くも「個の時代」の現代において、みんなでスクラムは時代遅れだ。けが人が出てもスクラムはもっと時代遅れだ。

 全体よりも個。それも、生涯にわたる個である。甲子園が「通過点」となり、「目標」でなくなれば、個々人はもっと自由にプレーできるし、長くプレーできる。その恩恵を一番受けるのは、実は野球ファンである。多くの「活躍できる可能性があったのに潰れて消えてしまった選手」の出現を回避できるのだから。

あわせて読みたい

「高校野球」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    安倍嫌いでも協力を 医師が訴え

    中村ゆきつぐ

  2. 2

    反権力は正義か マスコミに疑問

    BLOGOS編集部

  3. 3

    満員電車ゼロ 小池知事は今やれ

    藤田孝典

  4. 4

    タバコで新型コロナ重篤化の恐れ

    BLOGOS編集部

  5. 5

    現金給付案に自民議員からも批判

    山田賢司

  6. 6

    日本の補償は本当に「渋チン」か

    城繁幸

  7. 7

    キスも…慶応研修医の集団感染

    文春オンライン

  8. 8

    布マスク費用への批判は大間違い

    青山まさゆき

  9. 9

    コロナ患者かかった病院実名公開

    PRESIDENT Online

  10. 10

    高学歴女性がグラビア進出する訳

    NEWSポストセブン

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。