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安易な「独裁」批判はなぜ起きる?京都大学・佐藤卓己氏に聞く 政治参加を求める社会の落とし穴

「独裁政治」。現代の世界では少数になった政治体制ではあるものの、この日本でもたびたび現政権を批判するときに使われる単語のひとつだ。

1970年代にスペインで出版された絵本を復刊した「あしたの本」シリーズの1冊、『独裁政治とは?』(あかね書房)には、当時考えられていた独裁政治の問題点が描かれている。今回、本書にコラムを寄せた京都大学大学院の佐藤卓己教授に、現代社会において「独裁」という言葉を使うことの留意点と、現代の政治を取り巻く「世論」について聞いた。

批判のために使われるようになった「独裁」という言葉

—— 独裁政治、あるいは独裁という言葉は現政権を批判する際に多用されていると思いますが、実際のところ、現在の日本は独裁といえるのでしょうか

まず、政治学や社会学などで学術的に議論する場合の「独裁」と、新聞や雑誌で政治の現状を批判する際の「独裁」の使われ方は必ずしも同じではありませんね。

学術的な定義では、独裁は「単独者支配」、つまり一人ないしは一党派により支配された政治体制のことを指します。また、この絵本『独裁政治とは?』でも「絶対君主がいて、議会制度を持たず、自由な選挙が行われていない」という定義を採用しています。これに照らし合わせても、現代の日本が「独裁」だとは言えないだろうと思います。


独裁政治とは? (あしたのための本) あかね書房 - Amazon.co.jp

にもかかわらず、新聞や雑誌では、「安倍一強」の意味で「独裁」という言葉が使われているようです。これは多くの場合、強権的な政治姿勢への感情的な批判として「独裁」の言葉が使われているのであって、必ずしも「単独者支配」を指すものではないということには注意が必要です。

—— あくまで、批判のための表現手段として使われていると

現代人が「独裁」で想起するのは、20世紀の全体主義独裁、たとえばヒトラーやスターリンなどの体制です。彼らはこの絵本の扉にもイラストが掲げられおり、大量虐殺や侵略戦争の責任なども含めて今日でも語られることが多い人物ですが、「絶対悪」のイメージを持っています。そうした「絶対悪」の記憶がある以上、「独裁」という言葉はどうしても政治的には罵倒用語になってしまいます。

そこで問題なのは、「独裁」をもっぱら罵倒用語として使っていると、「独裁者にすべての責任があり、自分たちには責任がない」という考えに陥ってしまう点です。絵本のコラムでは、私はその点に注意をうながしています。

独裁というのは、「一人で決める」というシステムではありますが、そういった体制が生まれた責任は独裁者一人にあるわけではありません。私たちは「みんな(自分たち)で決める」ことを煩雑で面倒だと思っていないか、「適切な人に任せたい」と願う気持はないか、胸に手を当てて考えてみるべきでしょう。何ごとであれ、自分の意見をもとうとすれば、たくさんのことを調べ、多くの時間を費やして考えねばなりません。また、それを他人と議論して合意を得るのは本当に大変なことです。それが正しいとはわかっていても、不自由だと感じる人は多いでしょう。「みんなで決める」ことに時間を使うより、身近な人と楽しく自由な時間を過ごしたいと思うのはごく自然なことです。だとすれば、自由を求める私たちの生活、あるいは心理の中に独裁の可能性は潜んでいるともいえるわけです。そう考えると、独裁のような現象が起こる可能性はいまの日本でもゼロではないでしょう。

ですから、他人を罵倒する言葉としてのみ「独裁」を使うのは危険なのです。その言葉を使っている「自由な」私たちが独裁を招き寄せているかもしれない、という危険性は常に気に留めておくべきだと思います。

政治参加の敷居を下げることがポピュリズムを招く?

——「独裁」という言葉を使うことで、政治的な全責任が自分たちとは切り離されたところに置かれてしまうということですね

この絵本はスペインの独裁者であったフランシスコ・フランコ将軍(1892-1975)の没後2年で出版されています。あえてこの状況を日本でたとえるなら、敗戦で「軍部独裁」が終わった1947年、昭和22年あたりの問題意識に近いかもしれません。そのため、「独裁」と「自由」の関係性はかなり切り離されて対立的に描かれてはいるけれども、実際には、みんなが自由を求めて独裁が選ばれるという可能性も見落としてはいけないのではないかと思います。

フランシスコ・フランコ将軍 Getty Images

その意味でいえば、「独裁」の典型として考えられるナチズムも、「みんなで決める」民主主義の対極概念というより、むしろその究極概念と考えた方がいいくらいだと私は思っています。政治への「参加」を重視して、できるだけ多くの人が関わることが民主主義だと定義するならば、街頭に出て、「ハイル・ヒトラー」と歓呼で支持を表明するのは、誰でも参加できる、限りなく敷居の低い民主主義だと言えるわけです。

問題なのは、「支持を表明する」と言ったときに、その表明が理屈の上で正しいかどうかという文脈依存的なコミュニケーションではなく、指導者に共感できるかできないかという、つながり依存的なコミュニケーションである点です。「いいね!」を押すだけの、つながり依存のコミュニケーションであれば、「みんなで決める」は簡単に実現できます。

しかも、それはめずらしいことではないわけです。選挙期間中、近くの交差点で候補者が演説をしていましたが、誰も内容なんて聞いていない。演説している本人も、足を止めて聞いてもらえるとは思っていないですよね。

ではなぜ演説をしているかというと、それは政策という「文脈」よりも、見たことがあるという「つながり」のほうが、実際には一票につながる可能性が高いからです。これは何も「いいね!」のウェブ時代になって始まったことでもないわけですね。

—— そういう「つながり」に依存してしまうのはなぜなのでしょうか

それは「参加」が求められているからではないでしょうか。つながっていることは、参加の一番楽な形態ですから。

ネットで候補者の政策を見て投票先を決めるという人も、なかにはいるかもしれませんが、それは少数です。ただ、フォローしている、ただ目に入るだけでも参加になるなら、それに依存してしまうのは仕方がない。そうして手軽で安楽な政治参加はポピュリズム(大衆迎合主義)を招き、その行き着く先が独裁体制だということもできるでしょう。

—— となると、発信力が強い党派が有利になる?

発信力という言葉が何を指すかによりますね。「文脈」ではなく「つながり」の影響力という意味ならそうでしょう。いまだにマスメディアを利用したプロパガンダで意見を変えさせることができると考える人もいるようですが、そうした「弾丸効果論」は学説史上では1950年ごろには否定されています。

むしろ、人々の意見を変えるのではなく、潜在的な意識をいかに掘り起こすか、または放っておけば棄権する支持者をどう投票所に向かわせるかが、プロパガンダとして今日主に行われていることです。

政治は本来、犠牲の分担を決めるもの

—— たしかに、簡単に意見を変えられると考えるのも短絡的なものの見方かもしれません

一方で、「独裁」を政治の例外状況と考えることも短絡的かもしれません。確かに、独裁という概念は古代ローマのディクタトール(独裁官)から来ているわけで、戦争や内乱という非常時に、命令に反対する者を即死刑に出来るような権力が与えられる、という例外状況が起源なわけです。しかし、例外状況においてこそ見えてくる政治の本質もあるわけです。幸せや豊かさを分け合うだけなら政治はいらない。むしろ、政治の核心はある状況で誰が不利益を被って、誰が犠牲にならなければならないのかを決めることにあります。つまり、利益の分配よりも、犠牲の分担を決めるのが政治です。だからこそ、政治は楽しいものでも簡単なものでもなく、痛みを伴う非常に煩雑な調整が必要なのです。

しかし、そうした痛みは選挙の際には隠されていることが多い。選挙の前になると増税の話はできなくなるのは典型ですね。でもそれを先延ばしにしていると、いつかは社会が破綻してしまう。

有権者が犠牲や負担の分配に向き合うことから逃げているとき、それを快刀乱麻に処理できるという独裁者が人気を得るのは自然なことかもしれない。もしそのやり方で自分の不利益が少ないと思えば、独裁を歓迎する人がいても不思議はないですね。

話を聞いた 京都大学大学院の佐藤卓己教授 BLOGOS編集部

空気のような「世論」ではなく公的意見としての「輿論」を実体化することが重要

—— 本質的な議論を避けて、なんとなく形成された世論のようなものに乗ってしまっている状況ですね

なんとなく形成された世論、つまり「空気」ですね。それは「せろん(世論・Popular sentiments)」であって、討議を経た公的意見である「よろん(輿論・Public opinion)」とは区別すべきです。

明治時代には輿論(よろん)と世論(せろん)は区別されていたわけですが、政治の大衆化の中でその境界線が曖昧になってきました。しかし、これだけ世論調査が政治を動かしている以上、反時代的という批判はあえて引き受けても、熟議された輿論を実体化する努力が必要だろうと私は考えています。

—— 人を集めて学習と議論をした後に世論調査をおこない、より熟した結論を導くための「討論型世論調査」という取り組みもかつてありましたが

日本でも2012年に「エネルギー・環境の選択肢に関する討論型世論調査」が実施され、私も検証会合の委員として関わりました。ランダムサンプリングを行ったわけですが、実際にわざわざ東京で一泊して討議に参加した人の構成には大きな偏りがありました。リタイアした高齢男性が多く、20代のサラリーマンや子育て中の主婦などは極端に少数でした。これでは客観的な輿論とはならないですね。

—— 輿論というものを作るにはどうしたらいいのでしょうか

参院選直後にこんなことを言うのもどうかと思いますが、いっそ参議院をなくして、討論型世論調査を完全実施するための「輿論院」を作るのもひとつの手かもしれません。裁判員制度の議会版としての「世論公聴制度」の提唱は、世論調査研究の第一人者・西平重喜先生が以前からなさっていました(『世論をさがし求めて―陶片追放から選挙予測まで』ミネルヴァ書房など参照)。それをさらに拡大する思考実験ですね。

いまの全国世論調査のサンプル数はおおよそ2000人ですが、その中には経済政策にしろ安全保障にしろ知識がほとんどない人も少なくありません。これで判るのは感情分布であって公的意見とは言えません。それなら、有権者の政治教育を兼ねた「良識の府」、すなわち輿論院をつくって、熟議された意見が生まれるよう努めてみてはどうでしょうか。有権者の中から無作為に2000人を輿論員に指名して、特定の政策案件について勉強をしてもらって、議論の上でアンケートに答えてもらう。このように、学習と回答の義務をきちんと果たさせるためには、輿論員にはかなり高額の報酬を払い、ランダムに選ばれた国民が「当たった!」と喜ぶような仕組みを作らなければ、難しいでしょうね。

—— 気分のような「世論」で動く政治を「輿論」で動くものに変えるのは相当難しそうですね

世論は現実であり、輿論は理想だとも言えますね。でも、政治に理想は必要です。いずれにせよ、こうした輿論院の方が、衆議院のカーボンコピーと呼ばれる現在の参議院より「良識の府」にふさわしいと私は思いますけど。

—— 仕組み上の問題は別として、自分たちも気をつけるべきことはありますか

現代はみんな忙しい時代ですから、政治のことを細かく考える余裕はないという人も多いと思います。だとすれば、代議士というものは、自分の出来ない「深い」政治参加をまさに代理で行ってくれる存在だということをよく認識して、投票する必要があると思います。投票後は選んだ代議士の行動をよく監視することが必要ですが、これも実際にはなかなか骨の折れる作業ですね。だからこそ、メディアが有権者に代わってそれを行うことも期待されているわけですね。

プロフィール:佐藤卓己(さとう・たくみ):1960年生まれ。広島県出身。京都大学大学院教育学研究科教授。専攻はメディア史、大衆文化論。著書に『流言のメディア史』(岩波書店)、『ファシスト的公共性』(同)、『輿論と世論』(新潮社)など。

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