- 2019年07月22日 15:08
「EU委員長」決定で見えた「メルケル敗北」と「マクロン勝利」 - 熊谷徹
2/2さらにマクロンはもう1つの大きな「果実」を手にした。彼はEU委員長の座をドイツ人に与えることの引き換えとして、欧州中央銀行(ECB)の総裁にフランス人を据えることに成功した。
ドイツの経済界では、国際通貨基金(IMF)のクリスチーヌ・ラガルド専務理事がECBの総裁に就任することについて、懸念する声が強い。ECB総裁については、欧州議会の承認は不要である。これは、フランスだけでなくイタリアやギリシャなどの南欧諸国にとって大きな勝利だが、ドイツやオランダなど北部の国々にとっては、手痛い敗北だ。
ドイツの経済界では「フランス人が次期総裁になることで、マリオ・ドラギ総裁の金融緩和政策がさらに続く。フランスおよび南欧諸国は緊縮策よりも財政出動を重視しているが、今後ECBはそうした政策に理解を示すようになるだろう」という危惧を強めているからだ。ドイツでは長年にわたる低金利政策によって、銀行預金や生命保険の利率が低下し、市民の老後のための蓄えや金融機関の経営に悪影響が生じている。
弁護士資格を持つラガルドは米国の大手法律事務所ベーカー・アンド・マッケンジーで働いた経験もあるが、経済学者ではない。このためECBの通貨政策が、経済理論よりもEUの政治力学によって強い影響を受ける恐れがある。メルケル政権は同国のドイツ連邦銀行のイェンツ・ヴァイドマン総裁を推していた。ヴァイドマンは低金利政策の長期化と、ECBによる南欧諸国などの国債買取りに批判的で、緊縮策を重視することで知られていた。彼をECB総裁とすることで、低金利時代に終止符を打つというメルケル政権の目論見は水泡に帰した。
ブレグジットで変わる勢力図
「メルケル後」の時代が近づきつつある今、マクロンは自分が欧州の事実上のリーダーになることを考えている。その背景には英国のEU離脱(ブレグジット)による欧州政界の勢力図の変化がある。
ブレグジットはこれまでに比べて南欧諸国の力を強くする。EUで最も重要な意志決定機関の1つは、EU理事会(Council of the EU)だ(前述の欧州理事会とは異なる)。
EUの政策の基本方針はここで決められる。この理事会には、テーマごとに各国の財務大臣、外務大臣などが参加するので「閣僚理事会」とも呼ばれる。リスボン条約によると、2017年以降、閣僚理事会での採決には「二重の多数決」という規則が使われている。つまり採決の際に、EU加盟国の55%と人口の65%を同時に満たさなければ、議題は可決されない。これは加盟国の人口の違いに配慮するためである。これはEUの人口の35%を超える国家のグループは、あらゆる議題の通過を妨害できることを意味する。
中東欧を除くEU加盟諸国は、大きく2つの「派閥」に分けられる。1つは欧州の北部に位置する国のグループ。市場原理、自由貿易、規制緩和を重視し、国の競争力を強めるには政府の財政出動よりも民間活力を重視する国々だ。北の国々は、政府が野放図な借り入れを行い、国民にばらまくことは債務危機につながるとして、反対する。これらの国には、ドイツ、オランダ、オーストリア、フィンランド、英国が属していた。
ドイツ、オランダ、オーストリア、フィンランドはユーロ導入以前に、通称「ドイツマルク・ブロック」とも呼ばれて、閣僚理事会の採決で共同歩調を取ることで知られていた。英国もドイツと共同歩調を取ることが多かった。
逆に過度の緊縮政策に反対し、経済成長のための政府の財政出動を重んじるのが、地中海に面するフランス、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの南欧諸国だ。南の国々は、ドイツなどが求める財政緊縮に批判的で、経済を活性化するために政府が借入金を増やすのはやむを得ないと考えている。
難題山積の前途

欧州南部の国々=イタリア、フランス、ギリシャ、スペイン、キプロス、ポルトガル、マルタ
資料=EU統計局による2018年の各国の人口を基に筆者が計算
筆者注=この比率は、どの国を選ぶか、またどの年の人口を使うかによって異なる。たとえばハンス・ヴェルナー・ズィン教授は、ある論文の中で「ブレグジット後には北の国の比率が35%から25%に減り、南の国の比率が36%から42%に増える」としている。しかしドイツなど北の国々が南の国々の提案をブロックする能力を失うという全体の趨勢に変わりはない。
2018年の人口で計算するとドイツや英国など北部連合の人口はEUの人口の35.1%なので、結束すればいかなる議題の通過も妨害できる。つまり南欧の国々が無理難題を求めてきても、北の国々は閣僚理事会の採決でブロックすることができた。同様にギリシャなど南部連合もEUの人口の38.1%なので、採決でのブロックが可能だ。
だがブレグジットは、ドイツなど北の国々を不利な状況に陥れる。それは、北部連合が英国を失うために、人口比率が25%に減少するからだ。逆に南部連合の比率は43.9%に増える。
要するに、閣僚理事会で南欧諸国が財政出動を容易にしたり、保護主義を強めたりする政策を要求した場合、ドイツはブレグジットにより、そうした要求をブロックすることができなくなる。過度な財政出動は公的債務や財政赤字を増やし、財政状態を悪化させる可能性がある。南欧諸国の政府が自国経済のGDP(国内総生産)増加ではなく、国債を売って借金をすることで、国民の福利を増大しようとした場合、2009年に表面化したユーロ危機が再発する恐れもある。
ドイツの経済学者ハンス・ヴェルナー・ズィン、ミュンヘン大学名誉教授は、「ブレグジット後は、北の国々が採決でブロックすることができなくなるので、南欧諸国が閣僚理事会で自分たちの主張を貫くことが可能になる。たとえばドナルド・トランプ米大統領の貿易戦争に対抗して、南欧諸国が保護主義的な政策を強めてEUを要塞のようにして自由貿易を阻害しようとするかもしれない」と警告する。ブレグジットが閣僚理事会での力関係を大きく変えることによって、南欧諸国の影響力が強まり、ドイツなど北部の国々が押し切られる場面が増えるかもしれないというのだ。ドイツの経済学者や政治家の間では、「EUの南欧化」によって財政規律が緩むことを懸念する声が多く出されている。
マクロンがEU委員長、ECB総裁の人事で見せた強引な態度の裏には、EU内部でのドイツの影響力の低下があるのだ。
フォン・デア・ライエンが7月16日の演説で、「筆頭候補モデルを強化するとともに、欧州議会が法案を提案できない現在の制度を変えて、議員たちが新しい法律を提案できるシステムを作りたい」と述べたことには、欧州議会の議員たちの不満の強さを緩和しようとする態度が感じられる。
フォン・デア・ライエンは右派ポピュリスト政党の伸長に歯止めをかけるためにも、欧州議会の影響力の強化に努めざるを得ないだろう。その他にも米国との貿易摩擦、中国の一帯一路への対応、ブレグジットによる経済への悪影響、強権的な姿勢を強めるロシアとの対立、イランの核開発問題の再燃、今後も深刻化が予想されるアフリカや中東からの難民問題、欧州諸国が人工知能といったIT(情報技術)技術などで米中に水を開けられている現状、経済のデジタル化が生む所得格差、西欧と東欧間の法治主義をめぐる価値観の対立など、難題が山積している。新委員長の前途は険しいものになるだろう。(文中敬称略)



