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自分はほかの人々と同じだから正義は我にあり?

1.
てんかん患者が起こした(未だに原因が特定されない)交通事故、「大阪維新の会」大阪市会議員団が発達障害について無知を曝け出した家庭教育支援条例(案)、それにともなう母親という存在の難しさと、ここ数ヶ月の間に矢継ぎ早に「少数派」について考えさせられるできごとがありました。

これらについて当ブログでエントリーを書き続けてきましたが、いまだにどのように表現したらよいか書きあぐねている中国残留孤児の子弟である運転手が起こした高速バスの事故についても、「少数派」にまつわる問題を抱えていると言えます。

てんかん患者、中国残留孤児の子弟、これらが話題になったとき問題の本質ではなくヘイトスピーチに終始する者が非常に多かったことが印象的です。

なぜ、すべてのてんかん患者に向けて、すべての残留孤児と子弟(または他の国籍から帰化した者)に向けて、「死ね」、「カス」、「クズ」などと言われたのか。「てんかん w」、「残留孤児 w」などと Net に書き込む本人は「冗談だ」と言いたいのかもしれませんが、なぜいちいち笑われ(嘲笑され)なければならないのか。なぜ、私のもとに脅迫まがいのメールまで届いたのか。
ヘイトスピーチに終始していなかったとしても、多様な問題を抱えている私たちの社会から視線を背け、関係者の属性をことさら取り上げて糾弾するものがほとんどでした。
これらのできごとを発端として、このエントリーを書き進めます。

ヘイトスピーチに終始する者や、属性叩きをする者の、すこし長めの文章を読むとそれなりに背景が見えてくる思いがしました。

○ まず報道やブログ、Twitter で流された情報を聞いたり読んだりしているはずなのに、都合のよい部分だけを取り出し、都合の悪い部分を知らなかったことにする態度。ゆえに、日頃は情報強者であることが自慢であるはずなのに、自らが情報弱者になっている現実。
○ そのうえで、いずれの立場が多数派であるか敏感に察知し、多数派につこうと殺到すること。
○ 感情的になり、少数派が良識や倫理に反するものであるという自信に基づいて、正義は自らにあるからと、どれほど少数派を誹謗してもよしとすること。
○ 結果として、問題の本質は置き去りにされてヘイトスピーチだけが増えたこと。

これらは多数派につくことで、勝つことが約束されたゲームをしているのではないかと感じずにいられません。

てんかん患者が起こした(未だに原因が特定されない)交通事故の直後は、てんかん患者たちが標的にされ、続いて中国残留孤児の子弟である運転手が事故を起こすとこちらに矛先が向き、「多数派」は新たなターゲットに向かって走り出したようです。常に一定数の者が、数で勝つことが約束されたゲームに参加し続けているとしか思えません。
こうして中国残留孤児やその子弟が抱えざるを得なかった問題や、長距離バスの運転手の労働実態や、これらを利用する旅行業界などについては、何ら有効な議論が伴わず、悪いのは「中国残留孤児の子弟だから」とされるありさまです。
これはてんかんについても言え、ある人は「ヘイトスピーチであっても、感情的な発言でも、社会の目がてんかん患者に向くことで、てんかんへの理解が進む」という意味の発言をしていましたが、そのような前向きの議論に発展することはありませんでした。

2.
スキャンダラスな事件や事故が発生すると、圧倒的大多数の生活者の生の声だとする「良識や倫理」に基づき、「正義」を振りかざしたヘイトスピーチや属性叩きが続出したことは(1)に書きました。

良識や倫理や正義など存在しない、とは言いません。むしろ確固として存在しているけれど、いずれも曖昧で不確かなものであることを忘れてはならないと思います。曖昧さ、不確かさ、という点では「価値観」と大差ありません。

第二次世界大戦中の我が国では、戦争反対はもとより政権批判や天皇や皇族に不敬な発言をすること、自由な言論を求める者は非国民と呼ばれ、過酷な制裁を受けました。この制裁は当時の正義に基づくものだったのです。
まるで共産圏の某国みたいではないかと Net などで気が向くまま発言している人は言うかもしれませんが事実であり、時代や状況とともに「良識や倫理や正義」がいかに変貌するかのよい例でしょう。

上記した共産圏の某国では、自分は○○と思うけれど、それを言ってはいけないことになっているし、言う人も圧倒的にすくないし、もし言ってしまっては世の中から排除され制裁される、と人々は考えているはずです。
でもこれは某国に限った話ではなく、日本だけでなく民主主義を掲げる国においても、「自分は○○と思う」の○○の内容が変わっただけ、国家からの制裁がないだけで、世の過半数以上を占めていると “思われる” 「正義」(価値観)にそぐわない発言をすれば排除されたり誹謗され、言葉を用いた私刑(リンチ)、生命に危害が及ぶ私刑が行われるのは歴史を見ても明らかです。

数で勝つことが約束されたゲームに参加する人は、曖昧で不確かなものであるはずの「正義」を検証したり疑うことがなく、このような風潮に乗ることが快感で、正義は自らの側にあるとして疑いません。
「自分はほかの人々と同じだから正義は我にあり」という理屈です。
したがって、このような人々は「差別」という言葉を嫌います。自分たちは他別主義者ではない、あくまでも正義の下に「区別」しているだけだとしたいのです。

検証したり疑うことのない「正義」は論理でなく、情緒だと言って間違いないでしょう。こうして、前述した「感情的になり、少数派が良識や倫理に反するものであるという自信に基づいて、どんな手段を用いて少数派を誹謗してもよし」とする行動に結びつくと考えられます。

3.
てんかん患者、中国残留孤児の子弟は、多数派には成り得ません。
これらの人々は沈黙し、姿を隠していれば、数で負けることが確実なゲームと距離を置くことができるでしょう。
しかし、あくまでも「距離を置く」だけです。そして、ひとたび世の中に向かって発言をするなら、往々にして孤立することを意味し、全体から排除され制裁を受ける覚悟をしなければなりません。

なぜ、てんかん患者はてんかんであることを隠すのかと未だに言われます。
てんかんには様々な症状と発作の程度があり、抗てんかん薬で発作を抑えられる人が多く、何年も発作がなく健康な人と同様な例があるといくら説明しても、それが聞き入れられないのなら、数で負けることが確実なゲームに敢えて参戦しようとする人は稀になるのは当然です。
てんかんについて説明することが、そもそも「自分はほかの人々と同じだから正義は我にあり」という人への反逆にさえ受け止められるのが現実なのです。
てんかんを理由として、会社からの解雇、婚約破棄、離婚強要、が行われます。そして異を唱えた私は脅迫されなければならなかったのです。

これは、てんかん患者、中国残留孤児の子弟に限ったものではありません。学校で繰り広げられるいじめを見れば一目瞭然で、多数派に逆らうことで排除どころか致命的なまでの制裁を受けるのは、理由はどうあれ少数派です。
だからこそ、多くの人が「ほかの人々と同じ」である多数派の側につこうとするのだとも言えます。

ここに挙げた昨今のできごとでは、てんかん患者、中国残留孤児の子弟の当事者でなくとも、振りかざされた「正義」、誹謗や嘲笑に、疑問や異論がある人もいたことでしょう。
ところが、皆が皆、数で勝つことが約束されたゲームを殺気立って繰り広げているとき、自分の意見を口にすることは難しかったはずです。特に当事者が回復不能の傷を負うことを恐れたことは、当ブログに届いた悲痛なまでのメールでわかります。
「正義」とされているものを疑う人は存在していても、何も言えなくなっていたのです。

これが言論の自由がある国、日本の、言論の現実です。
そして国家権力が Net 規制に傾くとき、言論封殺、言論の自由の侵害、と声を張り上げる人の中にも、少数派の言論を平気で踏みにじる者がいるのです。

4.
このエントリーは、てんかん患者、中国残留孤児の子弟といった少数派についてから書き起しましたが、ここまで読んでいただければわかるように、「自分はほかの人々と同じだから正義は我にあり」とする立場をよしとしない者、どのようにしても多数派を形成できないあらゆる人々の問題を考えています。
思想信条、持病、障害、同性愛、経済的困窮、出身地による差別を受ける者、職業差別、挙げればきりがありません

多数派か少数派かを見極めてから自分の立場を選ぶのではなく、自分の意思に忠実であれというのは理想論でしかありません。
一人の人が群衆に取り囲まれているとき、群衆のうちの誰かが石を投げ始め、石を投げる人が多いから自分も投げてやったというのではあまりに幼稚ですが、これが現実に行われているのです。
このときいくら石をぶつけられている人を助けたくても、勇気を奮って群衆を止めに入れる人はほとんどいないでしょう。
このように、自分の立場を自分の意思に忠実に選ぶことと、これについて言論で対抗したり、行動に移すことの間には大きな溝があります。

「自分はほかの人々と同じだから正義は我にあり」という者も、自分自身の属性を細分化して行くならば、他人とは違う、多数派とは言えないものを持っているはずです。常に多数派に属しているとするのは幻想でしかありません。
そこで登場する究極のものが「生まれついての日本人」、「生まれついての日本国籍」という属性であり、拠り所です。ここに「愛国心」という正義が生まれ、数で勝つことが約束されたゲームがはじまります。いくら国の在り方を憂う言論であっても、彼ら彼女らの気に入らないものであれば発言者は「売国奴」と呼ばれます。
国を愛していて、彼ら彼女らの「愛国心」に違和感を覚えたとしても、数で負けることが確実なゲームに敢えて参戦しようとする人は稀です。誰も進んで私刑を受けたいと思う者はいません。

これは戦時中に国を憂い、無能で無謀な軍部を批判したり、言論の自由を主張した人々が非国民とされ、制裁を受けたのと同じです。そして多くの人は終戦まで口を閉ざしたのです。

あまり話の風呂敷を大きく拡げたくはありませんが、このような現状が全体主義や国粋主義や優生主義への玄関口ではないと言い切れるでしょうか。
「自分はほかの人々と同じだから正義は我にあり」という素朴で残酷な思い込みと、数で勝つことが約束されたゲームに参加したら何をしてもよいという卑怯さが日常になっていることこそ恐ろしいと発言するのは、いけないことでしょうか。

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