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民衆信仰「修験道」の過去・現在・未来(上) - 森休快

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山は「特別な存在」

田中利典・金峯山寺長臈

――やおよろずの神というのは、原始的には多分アニミズムから始まり、それがずっと続いている。中でも山というものに対する日本人の思いというか、そういうのが山岳宗教になり、修験になっていくという流れがあるわけですよね。

 でも、よくよく考えてみると、確かに国土の7割は山ですが、一方で、日本は海にも囲まれています。なぜ山岳宗教が生まれて海洋宗教は生まれなかったんでしょう。

田中:「まれびと」として海から異人が渡ってくるという信仰はあったと思うんですが、祖霊信仰のような形で発展をしなかったので、その「まれびと」は外から来る聖者みたいな意識だったのではないでしょうか。もしくは、ここから渡ってそのまま帰ってこないという、「補陀落渡海」みたいなものとか。

 しかし山というのは、常に自分の目の前にあって、自分が帰るべき場所なんです。死んでも祖霊になって、いずれ神となって帰ってくるみたいな考え方ですね。そういう山とか森とか里の循環が、日本のいろんなものを育んできたような気がしますね。

 そういう意味では、山の存在感は日本人にとって非常に大きいものである。もしくは、山を象徴とする自然。もちろん海も自然なんですが、日本人にとっての山に対する思いというのは、自然の延長であり、神の延長であり、祖霊の延長であり、宇宙の延長である、ということなんだろうと思いますね。

――それはもうかなり昔からですよね。例えば大神神社(奈良県)のご神体が山そのものであるということから考えてみても、仏教が入ってくる以前から、山岳信仰は日本人の中にあった、ということですね。

田中:仏教以前の神が持っていた信仰というのは、神という言葉もなかったし、概念とか理念とか偶像とかもなかったわけでしょう。それが仏教という広大深遠なる教義体系と、仏像や寺院建築などのいろんなものが入ってくることによって神道も触発され、神という概念ができ、さらには仏教的になっていって神仏習合を生んでいく、という流れがあったと思います。

 大事なことは、本の中で内山先生もお書きになっているように、民衆の信仰、ということです。民衆の文化と、国家体制とかいったものは常に相反するものがある。特に日本は、長い歴史を持ついろんな国の中でほぼ唯一、ちゃんとした国家というのができたように見えながらきちんとした中央集権国家体制は明治までできていなかった。一方で古代から続くような共同体社会が近代まで残ってきたところがあり、そこに庶民文化が脈々と生きていた。それを修験が支えてきたという視点は、あまり明治以降の文献研究では対象になっていない世界なのです。そのあたり、共同体理論が専門の内山先生からみると、たいへんおもしろい修験道や民衆宗教への切り口だと思います。

「明治禁令」の影響

――明治の修験禁止の段階で、国内に修験者が17万人もおり、当時の人口からすると相当の割合だったということですが、やはり近代化の入り口で1度禁止されたということで、山伏や修験者の存在というのを消してしまった。

田中:特に関東は完全に消してしまった。関西はまだそういうのが消えずに残りましたけど、関東は本当に消えちゃいましたからね。

 例えば大山参りにしても、その信仰は富士講です。富士講は八百八講、江戸八百八町に1つずつ講があったというぐらい、江戸の町民には根付いていたわけですが、それを導いたのは「御師(おし)」と呼ばれたいわゆる聖、山伏たちです。

 その富士講に付随するものとして、富士山までは行かないけど大山に詣ろうとか、高尾山に詣ろうとか、富士山への中途での信仰で盛り上がっていったわけです。それはまさに修験の世界、里修験の世界だったはずなんですが、江戸期に栄えたそういったものが、明治になって絶滅するんです。

――それはやはり禁令が大きかった。

田中:そう思います。

 関西の場合、大峯信仰も多くの関係する修験寺院が廃寺になり、金峯山寺も一時期神社化したとはいえ、大峯参りの信仰は続いていて、その力が金峯山寺をお寺に戻したと思いますし、組織の形が若干変わったところはあるにせよ、昔のものを関西では留めることができたわけです。

 ところが関東は、修験寺院が絶滅するんです、本当に。羽黒山にわずかに残っていますが、あとは富士山、大山、日光、高尾、筑波、三峯といった霊山のほとんどで修験寺院が消えた。本当に根幹から廃絶させられた。

――明治以降、東京や関東から文化が広がる時代になっていくわけですが、その入り口で関東から修験が消えたというのは大きな出来事だったんですね。

田中:そうなんです。例えば植島啓司さん(宗教人類学者)や鎌田東二さん(宗教学者)、中沢新一さん(宗教学者)などが語る修験は、神社の修験なんです。なぜだろうと考えると、それは関東には神社しか修験がないからなんです。

 修験は、神仏習合で仏教教義をベースにしたものですから、もちろん神社の部分もあるけれども、修験道イコール神社というのは近代以降の価値観で見ていることになるわけです。それは、修験の寺がなくなったからなんです。

 たとえば、上野の寛永寺。ここは東照大権現(徳川家康)の出先機関でしょう。明治政府はこの大権現が怖かったようで、徹底的に寛永寺をいじめるんですよね。彰義隊が敗北して明治新政府が確立すると、境内に競馬場を作ったりして、権現を恐れて徹底的に破壊した。ですから、修験も含めて関東一円は権現信仰も絶滅するんです。

 あと、伊勢もそうなんです。実は伊勢にも、かつては修験がありました。ところが明治以後、国家神道の1つのメッカになることで、伊勢の修験はことごとく壊されるんです。だから、今は跡形もほとんど残っていない。特に関東一円と伊勢では、修験は目の敵のようにしてつぶされていく。

 そんな中で近代以降の歴史があって、修験は学問的にも文化的にもあまり評価される対象ではなくなり、民俗学的な形でしか研究されなかったわけですが、この鼎談本では、民衆側から見た日本の宗教史とか文化史を語る上で、修験というものをきちんと評価しないと日本人の精神文化史が理解できないのではないか、ということを書いています。

――そうなると、やはり修験とは何かということをどう捉えるかという問題になりますね。

田中:その部分ではいろいろ意見が分かれるところなんですが、民衆に支えられた日本人の信仰のよりどころみたいなものを引っくるめて、全部修験と呼んでもいいのではないか。そういう立場で書いた本です。(つづく)

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