■なぜ日本人論の名著『「甘え」の構造』が読まれなくなったのか
これでは心理的視野狭窄が起こってもしかたない。ただ、これは子が親を看る、親が子を看る介護や面倒の話に限ったことではない。宗教学者の山折哲雄氏が以前、面白い指摘をしているのを目にした。
それは、戦後の日本を象徴する日本人論の2つのベストセラー『タテ社会の人間関係』(中根千枝著、1967年刊)と『「甘え」の構造』(土居健郎著、1971年刊)のうち、タテ社会のほうは今でも売れ続けているのに、『「甘え」の構造』のほうは2000年を境に読まれなくなったということだ。

要するにタテ社会は今でも続いているが、甘えを基盤とする社会が崩壊したのではないかという指摘である。
『「甘え」の構造』はタイトルから誤解されることが多いが、「甘え」を悪いものと考えるどころか、それができないことによって引き起こされる病理を問題にしたものである。素直に他人の好意を信じることができないから、すねたり、ひねくれたり、ふてくされたり、被害者意識を高めたりする。
確かに山折氏が指摘するように、2000年になる少し前くらいから、日本型の「終身雇用」や「年功序列」が悪い甘えの象徴とされ、「企業の系列」ももたれあいとか甘えとか言われて断罪された。
■セーフティネット「生活保護」受給者をたたく日本社会
さらに生活保護についても、もともとは不正受給が問題とされるべき議論が、いつの間にか「生活保護の人がワーキングプアの人より収入が多いのはいかがなものか」という論調に変化し、政府に頼る受給者に対するバッシングへとつながっていった。誰もが生活保護というセーフティーネットの世話になる可能性があるにもかかわらず、生活保護で国に食わせてもらっている人はけしからんという空気が醸成されたのである。

人に甘えることが許されなくなった事例は他にもある。昔は酒の席では、年齢や肩書に関係なく無礼講で言いたいことを言ってもいいことがあった。いわば「甘え」を認める文化だったが最近は、無礼講と口では言いつつ、その実、暗黙の了解があり、場の空気を壊す人間をKYなどと言って断罪するようになった。
■逆に欧米では相互依存の重要性が強調されるようになった
皮肉なことに、日本が「甘え」から「自立」を目指す社会や文化に変貌している際に、欧米では相互依存の重要性が強調されるようになってきた。
私が90年代初頭のアメリカ留学中から学び続けているハインツ・コフートの自己心理学は心理的依存の重要性を説くもので、現在アメリカでもっとも人気のある精神分析理論である。自立を求めてつい無理をしがちなアメリカのエグゼクティブにこれが受けているようなのだ。
また、日本でも一世を風靡した「EQ(こころの知能指数)理論」でも、感情のコントロールと同時に重視されるのは共感能力であり、いい意味で「相互に依存する」ことが人間関係を豊かにする重要性が説かれている。
この応用編の理論の中では、暴君型のリーダーシップは古く、共感型リーダーこそあるべき姿として説かれている。またハーバードやMITのような名門大学で「共同研究のスキル」を教えるようになったことも紹介されている。
■「嫌われる勇気」以上に「甘える勇気」が大事
これは道徳論ではなく、ひとりの能力では限界があるから、助け合える点は助け合って成果を高めようというアメリカ流のプラグマティズムに基づくものだ。
人に頼ることや救いを求めることが、日本社会ではとてもハードルの高いものになりつつあるが、そこで勇気を振り絞って、人に頼り救いを求めることで展望が開けることもあるはずだ。少なくともメンタルヘルスの改善を期待することができる。

今回の元次官の事件は、こうした「甘える勇気」の欠如がその根底にあると私は解釈している。それがないと、賢い人ほどメンタルにどんどん追い込まれ、うつ的症状になって本来の能力が発揮できなくなる。最終的には心理的視野狭窄を起こして、最悪の判断や行動をとってしまう。
「甘える勇気」があれば、メンタル面で健康度が上がって判断・決断も健全なものになる。また、人との協働によってパフォーマンスを向上させることができる。
今の日本人に、とりわけ頭のいい人がバカにならないために身に付けるべきなのは、「嫌われる勇気」以上に「甘える勇気」だと私は考えている。その理論や心の持ち方について詳しく論じた『甘える勇気』(新講社)という本を上梓したので参考にしていただけると幸いである。
(精神科医 和田 秀樹 写真=iStock.com)