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「おっさん」は強ければ叩いて構わず、弱ければ忌避される

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なぜ「おっさん差別」だけが、この社会で喝采を浴びるのか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
 
 リンク先は「おっさん差別」に関する文章だ。
 
 リンク先でテラケイさんは、「差別が許されない社会のなかで、差別主義者だと後ろ指をさされることなくバッシングできる対象属性」としておっさんを挙げている。弱者と認定されている属性やマイノリティとみなされている属性をバッシングすれば即座に差別主義者とされる現代社会でも、おっさん(という属性)へのバッシングは社会的に認められている、といった話だ。
 
 この文章を読み、私が最初に思い出したのは、歴史的にみて強者だった成人男性と、いまや強者とは言い切れない現代日本の成人男性だ。
 
 法のもとの平等が行き届かなかった長い歴史のなかで、権力を握る者・暴力をふるう者は専ら男性だった。もちろん、個別の男女の力関係のなかには、女性が強者だった例もあるだろうけれども、社会全体の制度や慣習は男性を強い立場とするようつくられていた*1
 
 そのうえ体格差を生かし、男性は女性を腕づくで服従させることもできた。法治よりも腕づくで物事が決まる社会では、ごつい体格の荒ぶる男性が、華奢な女性より優位に立ちやすい。
 
 だから人類史を振り返るなら、成人男性全般が強者とみなされ、女性や子どもの抑圧者とみなされるのはわかりやすいし、例えば20世紀前半の欧米社会でさえ、その見立ては現実に即していただろう。
 
 しかし21世紀の日本ではどうだろう。
 
 現代の日本は、今までのどの時代と比べても法治が行き届いている。男性が女性を腕づくで服従させることは、昭和時代まではあり得たが、令和時代には大幅に減った。「暴力は犯罪」という理念じたいは昭和時代にもあったが、その理念どおりに人々が行動するようになった度合い、その理念を人々が内面化した度合い、その理念から逸脱した時に社会的制裁を受けなければならない度合いが、今までと比較にならないほど高まった。
 
 街には監視カメラが溢れ、家庭内で男性が女性を腕づくで服従させればDVという犯罪とみなされ、交際相手の女性に男性が強引に迫ればストーカーという犯罪とみなされるようになった。単なる理念上の話ではなく、「腕づくの問題解決」がここまで実際的に法律やアーキテクチャに制限されるようになったのは有史以来初めてだろう。
 
 女性の社会進出や高学歴化がすすんだことで、知の領域でも、男性の優位性は揺らいでいる。日本は女性の社会進出に問題があるとよく言われるが、昭和以前と比較すれば女性の立場は強くなった。これからも強くなるだろう。
 
 ユースカルチャーの水準でも、成人男性、とりわけ中年男性が見下され、女性、とりわけ若い女性が持て囃された。戦後民主主義のうちに父権性を失っていた父親は、汚れた時代遅れの存在とみなされ、かわいく、流行に敏感な女性を持ち上げる風潮が80~90年代にはあった。
 
 「朝シャン」に象徴されるような、臭いに敏感になりゆく社会の変化も成人男性の立場を弱くしたように思う。なぜなら成人男性、特に中年以降の男性は臭うものだからだ。
 
 女性の立場がそうやって(相対的に)向上している間に、男性の立場は(相対的に)低下していった。少なくとも昭和時代に比べ、経済的・社会的に弱い立場に甘んじる男性は増えたと言っていいように思う。自己責任という言葉が人口に膾炙するような個人主義社会は、経済的・社会的に弱い立場の成人男性に冷たい。かといって「腕づくの問題解決」が封じられている以上、そうした弱い立場の男性が、「腕づくの問題解決」を試みることも困難だ。
 
 成人男性は、長らく強者の地位を占め、「腕づくの問題解決」を振るってきたのだから、今日の正しさの勾配のなかでバッシング可能な強者とみなす人がいても不思議ではない。実際、成人男性、特に中年の成人男性を見下すようなことを言っても構わないという意識は、成人女性や未成年だけでなく、当の成人男性自身にも根深く内面化されている。
 
 他方で、21世紀の日本の成人男性が必ず強者だなんてことは、もうあり得ないのだ。権力やカネを集めた成人男性が強者なのは疑いないとしても、実際には権力やカネから見放され、「腕づくの問題解決」も封じられた弱き成人男性がたくさんいる。また、そうした弱き男性はえてしてコミュニケーション能力にも恵まれていないから、第三次産業がメインで流動性の高い社会についていくことも難しい。
 
 21世紀の成人男性は、もう「おっさん」として一律に叩ける属性ではなくなっている、とみるべきだろう。

強い「おっさん」は叩ける。弱い「おっさん」は忌避される

 それより、私にとっての本題に入ろう。
 
 私は、現代社会では中年男性に限らず、「おっさん」というカテゴリに入り得る人は皆、叩かれやすい……というより忌避されやすいのではないかと思う。
 
 「おっさん」といえば「キモくて金のないおっさん」が第一に連想されるかもしれないが、男性でなくても、たとえばキモくて金のない中年女性も「おっさん」というカテゴリに入り得るようなものだ。だから冒頭のテラケイさんがどのような意図で「おっさん」という語彙を用いているのかはさておき、少なくとも以下の話では、「おっさん」というカテゴリのなかに中年女性、ときにはもっと若い男女も含まれるかもしれないことを断っておく。
 
 権力やカネを持った男性が強者とみなされ、ゆえに、今日の正しさに照らしてバッシング可能な存在とみなされるのはわかる話だが、権力やカネを持たない、立場としては弱い「キモくて金のないおっさん」が「おっさん」カテゴリのもとでバッシングされるのは、いったいどうしてなのだろうか。
 
 現代の正しさの基準になぞらえて正しいか否かは別にして、現代社会において「おっさん」はバッシングされやすく、そこまでいかなくても忌避されやすい理由や背景は相応にあるように思う。
 
 まず、「おっさん」は臭い。
 
 現代社会において、臭うという事態はエチケット違反であり、他人に迷惑をかけることに他ならない。もともと人類は体臭をそれほど気にしない生活をしていたが、体臭は歴史が下るにつれて嫌われるようになり、石鹸や香水や上水道の普及とともに駆逐されていった。  

自由・平等・清潔―入浴の社会史自由・平等・清潔―入浴の社会史  日本の場合、戦前から石鹸が流通しはじめていたとはいえ、臭いに対する敏感さが大きく高まったのは1980年代の「デオドラント革命」以降だ。若い女性が牽引するかたちで「朝シャン」が広まり、制汗スプレーなどの売上も大きく伸びた。1970年代以前に比べると、90年代以降の日本人はより多く入浴するようになり、より臭わなくなった。
 
 [関連リンク]:NHK|ニッポンのポ >> 俗語辞典 >> 「朝シャン」ブームの影の主役は…
 
 「デオドラント革命」以降の、誰もが体臭に敏感になった社会では、体臭を臭わせている人はただそれだけで他人を刺激し不快にする存在だ。「キモくて金のないおっさん」は、キモくて金がないのだから、おそらく体臭のメンテナンスも疎かになりがちだろうけれども、そのような男性は、たとえ暴力を振るわなくとも、たとえ他人を威圧しなくとも、存在するだけで無臭の秩序から浮き上がってしまう。
 
 日本の街と日本の人々は臭いを減らすことに熱心で、実際、街も人々も臭わなくなったのだけど、それだけに、体臭を放つ者は迷惑がられやすく、迷惑がられるがゆえに、叩いて構わない正当性があるかどうかはともかく忌避されやすい。  
 
 そのうえ「おっさん」はただ存在するだけで不安感や威圧感を与えかねない。
 
 子どもや女性に比べて体格の大きな男性は、ともすれば周囲に威圧感を与える。ここに、貧相な服装や不審な挙動などが加われば不安感や警戒感をもたらすこともあるだろう。
 
 日本の街は単に治安が良いだけでなく、誰もが安心して歩ける、それこそ女性が夜に一人歩きできる程度には安心できる街になっている。人々の安全や安心に対する要求水準はきわめて高い。
 
 そのような安心社会・安全社会のなかでは、体格の大きな男性、とりわけ貧相な服装や不審な挙動をみせる男性は、例外的に不安感や威圧感をもたらし得る存在だ。あまり言語化されていないかもしれないが、実のところ、安心社会・安全社会において、そのような存在は迷惑がられやすく、叩いて構わない正当性があるかどうかはともかく、忌避されやすいのではないか。──たとえばそのような男性が公園で子どもに声をかけた時、どのようなリアクションが起こるかを考えてみていただきたい。  
 
 現代の日本社会の秩序と美しい街並みは、お互いに迷惑をかけず、お互いの権利を侵害せずに自由かつ快適に生活できるよう最適化されている。しかし、お互いに迷惑をかけないこと、お互いが自由に快適に暮らすことがあまりに徹底された結果、この美しい街並みのなかでは、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は、ただそれだけで他人の自由で快適な暮らしに迷惑をかける、侵襲的な存在として浮き上がってしまう。
 
 これは、欧米社会が想定するような功利主義どおりの秩序だとは私には思えない。日本に入ってくる思想は、仏教でも民主主義でも日本風に変形するものだが、ここでも「他人に迷惑をかけてはいけない」という土着の考えや日本人の無臭性・治安の良さによって何かが変質してしまっているのだろう。そして今日の正しさに照らして考えた時、臭うから・不安感を与えるから・威圧感をもたらすからといった理由で他人を忌避して良いのか、ましてやバッシングして構わないのか、甚だ怪しいものである。
  
 しかし、これほど美しい街のなかで、これほどお互いに迷惑をかけず、安全・安心して暮らせる社会ができあがってしまった以上、人々が他人の体臭や体格や挙動に敏感になってしまうこと・昔は迷惑とも思っていなかったことまで迷惑と感じること自体は、よくわかるのだ。
 
 ここでも私は、デュルケームの僧院の喩えを思い出さずにはいられない。

それが完璧に模範的な僧院だとする。いわゆる犯罪[もしくは逸脱]というものはそこでは起こらないであろう。しかし、俗人にとっては何のことはないさまざまな過ちが、普通の法律違反が俗世界の意識に呼び起こすようなスキャンダルと同じように解釈されて、そこでは生じることになるだろう。したがって、もし、その社会が裁判と処罰の権力を持っているならば、それらの行為は犯罪[もしくは逸脱]的とされ、そのようなものとして扱われるに違いない

 デュルケーム『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)

無臭を徹底させ、安全・安心を徹底させた街のなかでは、昭和以前には許容の範囲だった臭いや体格や挙動までもが迷惑として、あるいは不安感を威圧感をもたらすものとして忌避されることになる。幸い、臭いから・体格が威圧的だから・挙動不審だからといった理由で犯罪扱いされる制度は無いけれども、それでも職務質問はされやすくなってしまうし、他人に迷惑がられたり敬遠されたりするおそれはある。
 
 この、臭いや体格や挙動の問題は、人口密度がきわめて高く、相対的に臭いやすく、誰がいても構わないとみなされているターミナル駅周辺や繁華街ではあまり問題にはならないけれども、閑静な住宅街や子どもの遊ぶ公園ではくっきりとした問題になる。「キモくて金のないおっさん」の居場所は、閑静な住宅街や子どもの遊ぶ公園には無い。なぜなら迷惑がったり不安感や威圧感を覚えたりするからだ。そうした通念は子どもや女性だけでなく、当の「キモくて金のないおっさん」自身も抱いているのだから、これまた根が深い。  

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