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日本兵の勇気に目覚め独立できた

インパール作戦の激戦地コヒマ
“無謀な作戦”にもう一つの評価

「進攻してきた日本軍は迎え撃つ英軍に比べ食料も弾薬も圧倒的に乏しかった。それでも多くの住民が日本軍の勝利を望んだ。日本人が英国の支配から解放してくれると信じたからだ。残念ながら敗れたが、日本兵は実に勇敢に戦い、規律も正しかった。われわれは、その姿に目を覚まされ独立することができた。だから今も日本に感謝している」

本欄で前回、触れたインパール平和資料館が日本財団の支援で完成し、6月22日の開館式に出席した後、インパール市北方の激戦地コヒマに足を延ばし、インパール作戦当時を知る住民や彼らから聞き取り調査を続けてきた研究者から話を聞いた。上記はその印象である。

インドの独立を含め、現在の平和は日本兵をはじめ多くの犠牲に上に成り立っている。インパール作戦が「無謀な作戦」であった事実は動かないが、戦闘から75年を経た現地には別の目線でこの戦争の記録を後世に残す動きも出ている。わが国でも、もっと幅広い視点でその姿が論じられるべきではないかー。限られた人数とはいえ、コヒマの人々の話を聞きながら、そんな思いを強くした。

山また山が続く激戦地コヒマ

コヒマはインパール市から北へ約110キロ。マニプール州の北隣ナガランド州の州都で現在の人口は11万5000人。1944年3月に始まったインパール作戦では、ビルマ方面軍・第15軍の第31師団約1万5000人がビルマ(現ミャンマー)からチンドウィン河、さらにアラカン山系を越えて進攻した。補給がないまま食料、弾薬が尽き、佐藤幸徳師団長(中将)は5月末、第15軍・牟田口廉也司令官(中将)の命令を無視して撤退を決意。一部任務を宮崎繁三郎・歩兵団長(少将)が指揮する支隊に託し、コヒマからインパール方向、さらにチンドウィン河を経てビルマ方向に撤退した。戦車、飛行機も交え圧倒的な装備を誇る英軍の追尾は厳しく、多くの兵士が倒れた撤退路は「白骨街道」とも呼ばれた。

▼敵弾より病気が怖かった

インパール作戦を語る佐藤哲雄さん

インパールを訪れる前、31師団歩兵58連隊に所属、コヒマの闘いに参加した佐藤哲雄さんを新潟県村上市の自宅に訪ねた。迫撃砲の破片が左足に食い込み、いったん後方の野戦病院で治療を受け所属部隊に合流する直前に部隊が敵の砲陣地へ総攻撃をかけ全滅した。その後、ビルマでの抑留を経て47年5月復員した。9月で100歳。耳がやや遠くなったが、記憶は鮮明で、軍靴の底に隠して持ち帰った自らの軍歴調書を見ながら当時を振り返ってくれた。以下は佐藤さんが語った悲惨な戦地の模様である。

[装備] 陣地の構築一つとっても日本軍は銃剣や円匙、敵はブルドーザーやトラックを使い、明らかに差があった。上空を飛ぶのは連合軍の飛行機ばかりで、補給路を遮断しても大量の物資が空輸され、日本軍にはこれを攻撃する砲もなかった。
[撤退] 食料も弾薬もなく、マラリアや赤痢で多くの仲間が命を失った。夜間はヒョウなど猛獣にも襲われ、動けなくなれば死しかない。だから敵弾よりも病気が何よりも怖かった。
[仲間の死] 戦争である以上、命令に従うしかない。しかし、多くの兵士が敵との戦いより飢えや病気、さらに増水したチンドウィン河を渡りきれず命を落とした。無念だったと思う。
[地元民] 最初は歓迎された。軍票と引き換えに食料も提供してくれた。しかし戦局が悪化するにつれ軍票は通用しなくなった。

▼日本語学校も開設された

コヒマは平地がほとんどなく車で回ると「山を下って、また上る」といった具合。山また山の地形で6月に雨季が始まる。滞在した3日間は散発的なにわか雨程度だったが、地元関係者によると、インパール作戦のあった1944年は記録的な豪雨だったという。これが退却戦を一層、悲惨にした。

こんな中、コヒマの教会牧師として聞き取り調査などを進めるサヴィト・ナギ氏と日本兵の遺骨収集にも協力するアジャノ・ベルホさんの案内で、当時を知る人を訪ねた。いずれも
90歳を超える高齢ながら驚くほど元気。佐藤師団長の食事を担当した男性は「日本兵は7、8人の小グループに分かれ村に散在し、食糧を買いに来た」と話し、引き換えに受け取った軍票を見せてくれた。

「大日本帝国政府」発行の2分の1ルピー軍票

インド国民軍(INA)を率いた独立運動家スバス・チャンドラ・ボースが戦闘指令所に佐藤師団長を訪ねてきたのを目撃したという男性は「ネタージ(ボースの敬称)は『英国人は、顔は白いが腹は黒い』とわれわれに戦いを呼び掛けた」と語った。またINAの創設に関わったF機関の藤原岩一中佐が現地の女性と暮らした住居跡を案内してくれた男性は「1000人近い日本部隊が村に駐留したが戦闘がないまま6月末には姿を消した」と説明した。

現地にはコヒマ進攻に先立ち日本軍が設けた日本学校の木造校舎も残る。17歳のころ、この学校で学んだという男性は「4月から日本軍が撤退する6月ごろまで村の若者が日本語などを学んだ。教えてくれた日本人教師には肉や米を届けた」とした上で、「長い間、使っていないので」と断りながら「日の丸の歌」などを歌ってくれた。

最後にコヒマの元教育大臣に、75年前のインパール作戦が現在のコヒマに与えた影響を問うと、「すべてがいい結果になっている。悪いところは何もない」と言い切り、「ナガランド州には地下資源や観光資源が豊富にある」と今後の期待を語った。

▼将来目標に温度差 「日本軍への感謝」は共通

ナガランド州は19世紀末、英国が支配下に置くまで、多民族の集合体といった形で、マニプール州を中心にしたマニプール王国と対立関係にあった。インド独立後、両州ともインド政府に自治権の拡大を求めているが、ナガランド州にはインドからの独立を目指す動きもあり、温度差があるようだ。しかし、日本に対する評価はともに好意的。現地には独立派が建てた日本軍の慰霊碑もあり、毎年、慰霊祭も実施されているという。付加すれば、同じモンゴル系として顔かたちが似る日本人に親近感もあるようで、どの人も恐縮するぐらい親切だった。

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