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痴漢防止スタンプに潜む冤罪以外のリスク 主流世論に乗じた企業決定は危ない

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 痴漢を防ぐ効果的な対策が見つからない中、文具大手のシヤチハタが「痴漢対策用スタンプ」の商品化を検討すると明らかにし、議論を呼んでいる。法政大学ビジネススクールの高田朝子教授は「一方的に加害者の判を押される側の立場も考えるべきではないか」と指摘する――。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/olaser)

シヤチハタが「痴漢撃退スタンプ」を作ると表明

 痴漢に遭った際に犯人を刺せるよう、自己防衛のために安全ピンを持ち歩くという話が、今年5月にTwitter上で話題になった。中学時代に痴漢被害に遭った際に保健の先生から受けたアドバイスを、女性が漫画にして紹介したもので、瞬く間に多方面に拡散され賛否両論の論争となった。

 この投稿から約1週間後、シヤチハタ株式会社(名古屋市)が公式Twitterアカウントで「今現在Twitterで話題になっている社会問題の件ですが、早期に対応ができるようにします。ジョークではなく、本気です」と宣言した。護身用の痴漢撃退スタンプの開発を検討すると明らかにし、多くの女性たちから喝采を浴びた。

 その後、「最初にご提案できるのは従来のネーム印とほぼ変わりません。今後段階的に形にできればと考えております」「目指すべきはこの社会問題が根絶され、“護身用グッズが必要ない世の中”になる事です」と続けて投稿し、この問題に会社として本気で取り組むことを示した。これに対して、圧倒的な賛成の声と、冤罪を危惧する声とで同社のTwitterは一時、甲論乙駁の状態になった。

 製品化の経緯について、同社広報部は「公式ツイッターへの投稿を担当する女性社員が、ネット上のやり取りに反応したことから社内でプロジェクトが始まった」と説明。「具体的な商品像はこれから議論するが、会社として対応すべき問題と捉えている」と答えている。(毎日新聞<痴漢に「刻印」護身用スタンプ開発へ シヤチハタ「本気です」 ネットで反響「証拠になる」>2019年5月28日

 同社は、かねてから社会的問題を製品によって解決することを重視し、同スタンプもその一環として位置付けているという。

被害者目線で語られることが多いが……

 人生の長い期間、満員の通学・通勤電車と縁が切れない筆者にとっては、痴漢問題は身近である。若い頃は痴漢の恐怖におびえ、年を取ってからは月に何度かは車両のどこかで起きた痴漢への対応で電車が遅延し、予定に遅れそうになり焦る。

 痴漢問題は首都圏の満員電車を毎日利用する者にとって、常に意識のどこかにあるといっても過言ではない。多くの人は、車内放送で聞かれる「お客様トラブルのために電車が遅れます」のアナウンスに、痴漢の発生を想像し、溜め息をついて痴漢をする人への怒りをあらわにする。迷惑を掛けられた人は加害者に鉄槌を下したい気持ちを持つ。

 被害者の感情を想像し、寄り添い憤ることはたやすい。痴漢問題は、大多数の人が被害者の視点で事態を考え、憤る。しかし、筆者は友人のある経験から、痴漢問題に別の視点を持つようになった。身に覚えのない「加害者」の烙印(らくいん)を押された人の視点である。

 古い話になるが、他大学に勤める同業者の友人の教え子が、満員電車の車内で痴漢を疑われた。教え子の青年は一貫して無罪を主張したが警察に引き渡された。

 警察がどのような対応だったのかは筆者は分からない。ただ事実として知っているのは、彼がその後程なくして自殺したことである。

 事件の少し前にあった同窓会で、彼は私の友人に「仕事はとてもきついが面白くなってきた」とうれしそうに近況を語っていたという。第1希望の就職先に進み、付き合っていた恋人とも結婚の話が出ていた時期だった。生前の彼の人となりを知る全ての人々が冤罪であることを信じ、彼の死を悼んだ。

 一度痴漢の烙印が押されてしまうと、無罪を証明することはわが国では極めて難しい。2007年に大ヒットした周防正行監督の映画「それでもボクはやってない」でも、痴漢冤罪の証明の困難さが描かれているので記憶にある読者も多いだろう。

満員電車で犯人を確実に特定できるのか

 満員電車の中で身に覚えのない痴漢を示す“しるし”が体に押され、犯行の証拠だとされたらどうだろうか。絶望することは想像するにたやすい。そもそも、首都圏の立錐の余地もない満員電車で、果たして真犯人を確実に特定し、しるしを付けることが可能なのかは大いに疑問がある。

 首都圏の満員電車を日常とする者はこの疑問を同様に抱くだろう。言い換えれば、首都圏以外の人にとっては満員電車の中で正確に犯人を捕らえる難しさは想像しにくい。

 国土交通省が発表した「三大都市圏の主要区間の混雑率」(2017年度)によると、1位は東京メトロ東西線(木場―門前仲町間)の199%である。首都圏だけでも、150%以上のJR・私鉄各線が23区間並ぶ。関西地区のワーストは阪急神戸線の一部区間(147%)、そしてシヤチハタが本社を構える東海地区は名鉄本線の143%である。

 混雑率は、改札を通過した人数を、その時間帯に運行される全列車の定員の合計で割った平均値で、実態よりも低く出る。現実には時間帯や、乗る車両によって混雑具合は数値よりも激しい。

 国交省によると150%の混雑率は「肩が触れあう程度、広げて楽に新聞を読める」状態、200%の混雑率は「体が触れ合い、相当な圧迫感がある。しかし、週刊誌なら何とか読める」と示している。150%であれば、状況によっては犯人を特定できるかもしれない。しかし、200%になるとその確実性については疑わしい。

「推定無罪」の原則が揺らぐ恐れも

 もう一つ疑問を持つ。スタンプを押す側の判断である。たまたま側に居た人に対して、外見が気持ち悪いから、暗そうだから、人相が悪いから、側に来られたくないから、臭いから、自分がむしゃくしゃしているからという理由で、誰かが誰かにスタンプを押すことは決してないのだろうか。常に正確な判断がなされているといえるのだろうか。

 何の検証もないままに一方的に加害者の判を押され、有罪が確定するまではいかなる人も無罪として扱う推定無罪の法原則が侵害されてしまうことをどう考えるのか。そして、正しい理由なくして烙印を押された人たちの心の傷や、怒りや、その後の人生で受ける不都合や不利益について、痴漢撃退スタンプの製造者はどのように担保するのだろうか。

 成人した息子を持つ母としても、通勤電車に乗る夫を持つ妻としても、そして多くの男性の教え子を抱える教員としても不安を覚える。

 筆者はシヤチハタに対して全く悪意はない。むしろ好意を持っている。業務で毎日シヤチハタのハンコを押している身であり、同社の技術力とブランドには全幅の信頼を置いている。ただ、組織行動論を専門とする経営学者として本事例への一連の対応を見たときに、企業がSNSで形成された世論に乗っかって意思決定をすることについての違和感を強く覚える。

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