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"年金は貰わないと損"という日本人の歪み

■「毎月の赤字額は約5万円」の本当の意味

質問した野党議員も回答した大臣も、報告書をきちんと読んでいなかったに違いない。例の「老後、2000万円赤字」問題である。

2019年6月10日、参院決算委員会で立憲民主党の蓮舫幹事長(右下から2人目)の質問に答弁する麻生太郎財務相(中央)。左端は安倍晋三首相(写真=時事通信フォト)

金融庁の金融審議会市場ワーキング・グループ(座長・神田秀樹学習院大学大学院教授)は6月3日、「高齢社会における資産形成・管理」と題する報告書を公表した。「はじめに」にも記載されているが、この報告書の目的は、「個々人においては『人生100年時代』に備えた資産形成や管理に取り組んでいくこと、金融サービス提供者においてはこうした社会的変化に適切に対応していくとともに、それに沿った金融商品・金融サービスを提供することがかつてないほど要請されている」として、金融サービスの許認可権を握る金融庁に、資産形成のための制度見直しを急ぐよう求めている。

その前提として使われたのが、高齢夫婦無職世帯の平均の年金収入と消費支出の差。「毎月の赤字額は約5万円となっている」と報告書は述べている。さらに「収入と支出の差である不足額約5万円が毎月発生する場合には、20年で約1,300万円、30年で約2,000万円の取崩しが必要になる」としていた。

■老後の生活費赤字は「年金制度の問題」か

翌4日付けの朝刊各紙は、その「前提」に焦点を当てたものが多かった。日本経済新聞朝刊は5面の3段記事で「人生100年『2000万円不足』 金融庁 年金以外の資産形成促す」というタイトルだった。日本テレビのニュースでも「金融庁『年金では足りない』資産運用促す」といったトーンだった。テレビの情報番組はさらに刺激的で、「老後『2千万円が不足』金融庁が驚きの報告書 年金だけでは足りない!?」(FNN)といった取り上げ方が目立った。

野党から批判の声が上がると、金融担当相を兼ねる所管の麻生太郎副総理兼財務相が記者会見で「赤字というのが不適切だった」と早々に修正した。だが、それでも野党は収まらなかった。週明けの6月10日に行われた参議院での質疑で、立憲民主党の蓮舫議員が質問に立った。

「総理。日本は一生懸命働いて給料を貰って、勤め上げて退職金を貰って年金を頂いて、それでも65歳から30年生きると、2000万円ないと生活が行き詰まる、そんな国なんですか」

冒頭から声を荒らげた。この質問自体、新聞の見出しやテレビのタイトルを前提にしたものだったに違いない。いつの間にか、老後の生活費が月5万円赤字になるのは年金制度が問題だからだという話にすり替わっている。

■攻める方も守る方も「いい加減」な論戦

蓮舫氏は麻生大臣に「この報告書、読みました?」とも聞いた。

麻生大臣は正直と言うか、脇が甘いと言うか、次のように答えた。

「冒頭の部分、一部目を通させていただきました。全体を読んでいるわけではありません」

公表から1週間が経過し、野党から批判の声が上がっているにもかかわらず、やはり、読んでいなかったのだ。

ところが、蓮舫氏も不思議な発言をしたのだ。

「これだけ国民の間で怒りが蔓延して大問題になっている。読んだら5分で終わる報告書を読んでいない」

報告書は50ページである。5分で読むには1ページ当たり6秒で読む必要がある。ネット上などで、当該部分しか読まずに質問していたのは明らかだと批判されたのは言うまでもない。その後、麻生大臣は、問題の報告書の受け取りを拒否するという奇策に出た。自ら諮問しておきながら、内容が気に入らないから受け取らないというのは、審議会制度を根本から揺さぶる。結局、最後まで報告書を読まなかったから、報告書の真の狙いを理解する前に「拒絶」してしまったのだろう。攻める方も守る方もいい加減なのだ。

7月の参議院選挙を控えて、とにかく安倍晋三首相と与党を攻撃したい野党と、問題を小さくしたい政府・与党。ただそれだけの不毛な論戦だった。

■「年金制度は100年安心」はウソではない

今回の騒動は、国民が年金問題を改めて考える良い契機にはなった。自民党や公明党はこの10年あまり「年金制度は100年安心」と言い続けてきた。年金保険料の負担率の上限を決め、経済情勢に合わせて支給額を見直す「マクロ経済スライド」を導入したことで、確かに年金制度自体は「100年安心」で、崩壊することはなくなった。だが、それは、100歳まで長生きする高齢者が安心して暮らせると言っているわけではもちろんない。

野党が「100年安心」と「95歳まで生きたら2000万円赤字」という報告書の前提数字を連動させ、「年金詐欺だ」と騒いだのは悪質だが、多くの国民が「老後に向けて2000万円は蓄えないとマズイのか」と思ったのは間違いない。報告書には「平均的な姿をもって一概に述べることは難しい面があるが」と断ったうえで、金融資産の平均保有状況は、夫婦世帯で2252万円であるとしている。

平均でみれば、保有する金融資産の取り崩しで、95歳までやっていけるということが書かれているのだ。支出額が実際に使われている消費支出を使っているので、収支がバランスするのは、当たり前と言えば当たり前だ。

■だれが「年金だけでOK」と考えているのか

今回の議論を聞いている多くの国民も醒めている。「老後の生活は年金ですべてまかなえる」と考える人が、いまどれほどいるだろうか。

日本の貯蓄率は欧米に比べて高い。それは年金だけでは生活費が不足するという認識が一般的だからだ。一方で、貯蓄がなければ、年金だけで生活するしかない。

高齢世帯のうち、貯蓄をつくる余裕のなかった人、特に自営業などで国民年金しか受給できない人は、働ける限り働いている。生活費の不足を補うためだ。国会議員に言われなくても、すでに自助努力しているのだ。

それでは年金は何のためにあるのか。

■年金は「保険」であって、「貯金」ではない

厚生年金の正式名称は「厚生年金保険」である。国民年金も掛け金は「保険料」だ。本来、年金は「保険」であって、「貯金」ではない。老後、生活が立ち行かなくなった人には年金(保険金)を支払うが、十二分の所得や資産のある人には支払わない、あるいは減額する、そうした弱者を助ける制度が前提になっている。

世界で初めて老齢年金保険制度をドイツの宰相ビスマルクが導入したのは、鉱山労働者が退職後、身体を患い生活が困窮するのを助けるためだった。困窮世帯が増えることで社会主義が浸透することを避けるのが狙いだったとも言われている。つまり、貧困対策、困窮者救済が年金制度の当初の狙いだったわけだ。

■金持ちも「年金は貰わないと損」と考えている

戦後の日本の年金制度では、あたかも掛け金が貯金であるかのような宣伝がなされてきた。現役時代の50%以上の所得を補償しますというのが最たるものだ。だから、豊かな生活を送るのに十分な所得や資産のある高齢者でも、年金は貰わないと損だと考えるようになった。自分は年金を掛けてきたのだから、貰って当然というわけだ。

だが、日本の年金制度は支払った掛け金を積み立てている「積立方式」ではなく、保険料がそのまま現在の高齢者の年金給付に充てられる「賦課方式」になっている。貯金ではないのである。

■増税より保険料増のほうが実施しやすい

政府が、年金をあたかも貯金であるかのように国民に思わせてきた理由がもうひとつある。増税に反対する国民も、社会保険料負担の増加は受け入れてきたからだ。いずれ自分の年金給付として戻ってくると思うから、反対が小さいわけだ。

例えば、国民所得のうち、どれだけが租税負担と社会保障負担に回されてきたかを示す「国民負担率」をみると、これが鮮明だ。平成元年度(1989年度)の租税負担は27.7%、年金や健康保険などの社会保障負担は10.2%だった。それが実績が出ている最新の29年度(2017年度)では、租税負担は25.3%、社会保障負担は17.6%である。税負担はむしろ低下しているのに、社会保障負担は大きく増えたのである。国民負担率合計は42.9%と過去最高を更新している。

さすがに年金や健康保険の保険料をこれ以上引き上げることは難しい。後は消費税など租税負担を増やしていくしか方法はない。

今回の報告書を巡る問題は、財務省の深謀遠慮が背景にある、という指摘もある。「老後は2000万円の赤字」というのを喧伝し、十分な年金を支払うためには、もはや増税しかないと言いたいというのだ。老後の豊かな生活を国が保障すべきだと言い始めれば、当然、その分の負担は国民自身が負わなければならない。高負担なくして高福祉はない、というのは当たり前の話だろう。

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磯山 友幸(いそやま・ともゆき)
経済ジャーナリスト
1962年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、「日経ビジネス」副編集長・編集委員などを務め、2011年に退社、独立。著書に『国際会計基準戦争 完結編』(日経BP社)、共著に『株主の反乱』(日本経済新聞社)などがある。

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(経済ジャーナリスト 磯山 友幸 写真=時事通信フォト)

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