■国家を無くすことは不可能に近い
BLOGOSのコメント欄を読んでいると、よく「自由人なのに、リベラルを批判するのはおかしい」とか、「自由人なのに、国家を肯定するのはおかしい」というような意見を目にする。
ペンネームの「自由人」の意味は、BLOGOSのプロフィール欄を見ていただければ判る通り、「自由に考える人」と書いてあるのだが、スマホでの閲覧は小さな文字なので目に入らないのかもしれない。
「自由に考える人」が必ずしも「リベラリスト」である必要はないだろうし、「リバタリアン」である必要もないと思うのだが、意図してか、意図せずしてか、批判の矛先はいつも「自由」というキーワードに結び付いてしまうようだ。
私もほんの一時期「リバタリアン」というものに少し惹かれたことはあったものの、現在は全く興味がなくなった。と言うか、国家を無くして個人だけで成り立つ社会というのは不可能に近いと思うに至った。
おそらく、世の中の「リバタリアン」と言われる人々は、個人の才能だけで生きていけると思えるほどに優秀で仕事ができる人が多いのだろうと思うが、本当に国家を無くして生活できるのかをよくよく考えてみると、かなり無理があると思う。むしろ、国家というものがあるがゆえに、そのような自由過ぎる発想が出てくるのではないかとさえ思える。
■警察のいないアナーキー社会
例えば、あなたに若い娘がいたとして、その娘が近所の暴力団に誘拐され、暴力団事務所に監禁されている場合をシミュレーションしてみよう。
その場合、あなたがどういう行動に出るかと言えば、普通は警察に相談するだろう。単身で暴力団事務所に殴り込みに入るような漫画の主人公のような人はともかくとして、普通は「娘が暴力団に誘拐されたのでなんとかしてください」と警察に懇願するのではないだろうか。
そして、警察官が暴力団事務所に乗り込んで、娘を奪い返してくれれば、「助かった…」ということになるだろう。
しかし、もし国家というものが無くて、警察という組織も無ければどうなるだろうか?
民間の警察や用心棒やパトロールはいるかもしれないが、そういった人々が本当に暴力団の事務所に乗り込んでくれる保証があるだろうか?
多額のお金を支払えば、命の危険を冒してでも乗り込んでくれる人はいるかもしれないが、法的にその暴力団を拘束する権利も逮捕する権利も持たないのであれば、一時的に解決できたとしても、またいつ何時、暴力団に狙われるか分からない。そんなアナーキーな社会では、安心して眠ることもできないだろう。