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- 2012年05月07日 00:00
コスト競争のため安全を犠牲にすることと、法律との関係
安価が売り物の焼き肉チェーン店でユッケ死亡事故が起きた直後、焼き肉屋であえてユッケを注文し、「あの事件、どう思う?」と店員に聞いたら、「生肉なんだから、安いものを食べちゃだめ!」と答えた。だが、体力はあるがお金がない(ようにみえる)その若い店員は、東京ディズニーランドに遊びに行くときには、高速バスを使うかもしれない。
安全工学の分野では、「リスクとベネフィット」という考え方がある。たとえば包丁には、怪我をするというリスクと、物を切れるというベネフィットがある。このリスクとベネフィットは表裏一体だから、リスクが現実化しても、包丁メーカーが法的責任を問われることは、原則ない。また、自動車は、日本だけで年間数千人を殺すが、高速移動・長距離輸送のベネフィットと表裏一体のものとして社会に受け入れられているから、その危険が現実化しても、自動車メーカーが法的責任を問われることは、原則ない。ユーザーは機能のベネフィットを享受する代わり、安全に配慮する義務を負うから、リスクが現実化して怪我を負っても、自己責任が基本だ。
つまり、製品が本質的に持つ安全リスクは、機能の持つベネフィットが社会に受けいれられる限りは、ユーザーに転嫁される。この場合、リスクが現実化しても、メーカーが責任を問われることはないし、仮に問われることがあったとしても、使い方が悪かったのだ、と過失相殺を主張できる。
「リスクとベネフィット」という考え方は、次世代ロボットの安全基準策定にも反映されている。その背景には、事故が起きたときの法的責任を恐れるメーカーの事情があるし、この分野を整理しない限り次世代ロボット市場は発展しないと言われている。
この考え方は、長距離バスというサービスにも当てはまるのだろうか。
金沢から東京まで、飛行機なら1万8000円、鉄道なら1万3000円だが、高速バスなら5000円以下。時間は倍以上だが、費用は3分の1以下だ。だが、高速バスのユーザーは、時間以外に安全も犠牲にしている。自覚はないかもしれないが、事故発生の確率が鉄道や飛行機より高いことは、少し考えれば分かることだ。つまり、長距離バスは本質的に、安全を犠牲にして価格的な便益を提供しているのである。そして、安価な長距離バスほど、犠牲にされる安全の程度は高い。
コスト競争が、本質的に安全を犠牲にしていることは、高速バスに限られない。私の職場がある大阪北浜の路上で売る弁当は、最近400円台の競争に突入した。800円前後の定食屋に比べ安価で、待ち時間がないというベネフィットを提供するが、特にこれからの季節、食中毒のリスクは高まる。「安物買いの銭失い」という諺が示すとおり、安価というベネフィットを享受しようとするあまり、より重大な価値を失うリスクがあることは、古来常識だった。
しかし法的には、コスト競争のため安全を犠牲にしたという事実が、責任を免除・減少させる主張として認められることはない。「安いユッケを食べた方も悪いから3割の過失相殺」という判決は、少なくとも日本では出ていない。法律上は、「コスト競争のため安全が犠牲になっていることは、被害者も承知の上で、安価という便益を享受したはずです。だから、損害賠償金も相応の減価がなされるべきです」という主張は許されない、ということになる。
注意するべきは、許されないのは「主張すること」であって、「コスト競争のため安全を犠牲にすること」ではない。平たく言い換えると、コスト競争のため安全を犠牲にすることそれ自体は許されているが、それをおおっぴらに主張することは許されない、ということだ。つまり、価格競争によるリスクをユーザーに転嫁することは、法的には許されないのである。
「機能を享受するために、安全を犠牲にする」ことによるリスクは、ユーザーに転嫁することが許されるが、「安価さを享受するために、安全を犠牲にする」ことによるリスクを転嫁することは許されない。この違いを理解することは、とても難しいように思われる。
安全工学の分野では、「リスクとベネフィット」という考え方がある。たとえば包丁には、怪我をするというリスクと、物を切れるというベネフィットがある。このリスクとベネフィットは表裏一体だから、リスクが現実化しても、包丁メーカーが法的責任を問われることは、原則ない。また、自動車は、日本だけで年間数千人を殺すが、高速移動・長距離輸送のベネフィットと表裏一体のものとして社会に受け入れられているから、その危険が現実化しても、自動車メーカーが法的責任を問われることは、原則ない。ユーザーは機能のベネフィットを享受する代わり、安全に配慮する義務を負うから、リスクが現実化して怪我を負っても、自己責任が基本だ。
つまり、製品が本質的に持つ安全リスクは、機能の持つベネフィットが社会に受けいれられる限りは、ユーザーに転嫁される。この場合、リスクが現実化しても、メーカーが責任を問われることはないし、仮に問われることがあったとしても、使い方が悪かったのだ、と過失相殺を主張できる。
「リスクとベネフィット」という考え方は、次世代ロボットの安全基準策定にも反映されている。その背景には、事故が起きたときの法的責任を恐れるメーカーの事情があるし、この分野を整理しない限り次世代ロボット市場は発展しないと言われている。
この考え方は、長距離バスというサービスにも当てはまるのだろうか。
金沢から東京まで、飛行機なら1万8000円、鉄道なら1万3000円だが、高速バスなら5000円以下。時間は倍以上だが、費用は3分の1以下だ。だが、高速バスのユーザーは、時間以外に安全も犠牲にしている。自覚はないかもしれないが、事故発生の確率が鉄道や飛行機より高いことは、少し考えれば分かることだ。つまり、長距離バスは本質的に、安全を犠牲にして価格的な便益を提供しているのである。そして、安価な長距離バスほど、犠牲にされる安全の程度は高い。
コスト競争が、本質的に安全を犠牲にしていることは、高速バスに限られない。私の職場がある大阪北浜の路上で売る弁当は、最近400円台の競争に突入した。800円前後の定食屋に比べ安価で、待ち時間がないというベネフィットを提供するが、特にこれからの季節、食中毒のリスクは高まる。「安物買いの銭失い」という諺が示すとおり、安価というベネフィットを享受しようとするあまり、より重大な価値を失うリスクがあることは、古来常識だった。
しかし法的には、コスト競争のため安全を犠牲にしたという事実が、責任を免除・減少させる主張として認められることはない。「安いユッケを食べた方も悪いから3割の過失相殺」という判決は、少なくとも日本では出ていない。法律上は、「コスト競争のため安全が犠牲になっていることは、被害者も承知の上で、安価という便益を享受したはずです。だから、損害賠償金も相応の減価がなされるべきです」という主張は許されない、ということになる。
注意するべきは、許されないのは「主張すること」であって、「コスト競争のため安全を犠牲にすること」ではない。平たく言い換えると、コスト競争のため安全を犠牲にすることそれ自体は許されているが、それをおおっぴらに主張することは許されない、ということだ。つまり、価格競争によるリスクをユーザーに転嫁することは、法的には許されないのである。
「機能を享受するために、安全を犠牲にする」ことによるリスクは、ユーザーに転嫁することが許されるが、「安価さを享受するために、安全を犠牲にする」ことによるリスクを転嫁することは許されない。この違いを理解することは、とても難しいように思われる。