記事

兵器化される情動反応――2019年インドネシア大統領選挙にみる選挙テクノロジーの影 - 本名純 / インドネシア政治研究

2/2

CAは、有権者の情動反応を引き出すメッセージをSNSで拡散することで投票行動を誘導する心理戦で一躍有名になった。これにインドネシアの政治エリートも飛びついた。とくに反ジョコウィ勢力はIT専門家たちにCAの手法を学ばせ、サイバー部隊を次々と準備した。選挙直前、ジョコウィの補佐官は、次のように筆者に嘆いていた。「数多くの勢力が、それぞれサイバー部隊を動かしている。彼らは同床異夢だが、狙いはひとつ。大統領の交代だ。」

実際、ジョコウィの選対本部には、SNSによる情報拡散をIPアドレスの足跡をたどってネットワーク分析のマッピングを常に行っている班があり、そのデータを見せてもらったところ、4つほどのクラスターからフェイク・ニュースや偽情報が拡散されていた。それらは、プラボウォ率いるグリンドラ党の関係者が発信するもの、イスラム保守党である福祉正義党(PKS)関係者が発信するもの、武闘派のイスラム強硬派団体であるイスラム擁護戦線(FPI)関係者が流すもの、そして越境的イスラム急進団体である解放党(HTI)関係者が拡散するものである。

各々のクラスターが、それぞれサイバー部隊を多数準備し、SNS発信のエンジンを各地に置き、ジョコウィ攻撃のメッセージを組織的・体系的にプログラミングして大量に放射してきた。国家官房のメディア対策担当補佐は、「ウクライナなどの国外にエンジンを置く場合もあり、拠点を分散化させることで摘発を困難にしている」と解説する。

このサイバー空間で、どういうメッセージが効果的に流されてきたのか。もっとも広がったのが、「ジョコウィは共産主義者であり、異教徒の操り人形であり、彼が再選したらアザーンが禁止になりLGBTも合法化される」という類のメッセージである。このネタには複数のバージョンがあり、手を変え品を変え、機関銃のごとく撃ち込まれた。こういう情報は、聞く耳を持たない人たちには効果はあまりない。しかし、保守イスラムの支持者たちにとっては、そういう情報こそが、政権が今まで隠してきた「不都合な真実」であると考える。こうして反ジョコウィ勢力の結束力を高めていった。

もちろん、こういう情報はフェイクである。しかし、何がフェイクで何が真実か。その境界に果たして意味があるのか。じつはさほど真実には価値はないのかもしれない。筆者はそのことを今回の選挙で痛感した。大事なのは自分が信じているかどうかである。イスラム保守勢力の多くの人たちは、仲間から送られてくるSNSのメッセージを信じている。そこには感情の力が大きく働いている。理性ではなく感情が政治意識を規定するのである。

とくに「キモい」「コワい」「ヤバい」という脳の情動反応を直接刺激するメッセージを大量に受容することによって、「こんな大統領は嫌だ」「怖い時代が到来する」といった嫌悪と不安が脳内をハッキングする。これを脳神経学では扁桃体のハイジャックと呼んでいる。選挙でのSNS戦略は、まさにこの効果を狙ったものである。有権者は、不安から解放されるためにも積極的にプラボウォを支持するという投票行動に誘導されていく。

もう読者は気づいていよう。このような展開は、民主選挙にとって危険信号を発している。それは、感情が支配する選挙の危うさとも言える。候補者の業績や政策、ビジョンなどの情報にもとづいて、合理的・論理的に投票行動を決めるという、我々がこれまで「常識」としてきた民主選挙のあり方が大きく問われている。

宗教や民族のアイデンティティーが前面に出て、「好きか嫌いか」という感情が投票を決定づける時代に突入しつつあるとするならば、社会分断は深刻化することはあっても緩和することはない。そのことは、他者への不信感を高め、社会的な寛容性を低下させ、マイノリティーのスケープゴート化を助長し、結果的に民主的な政治空間を圧縮させるだけだ。その意味で、選挙テクノロジーの発展は、皮肉にも民主政治を脅かす危険性をはらんでいる。

「新しい選挙戦」の未来?

ジョコウィが所属する闘争民主党の幹部は、今回の大統領選挙がサイバー戦に乗っ取られて史上もっとも醜い選挙になったと回顧する。そして将来はもっと酷くなると展望する。理由は、一部の国で模索されているバイオメトリクス技術の選挙利用であり、遠くない未来にインドネシアにも入ってくるであろうという懸念だ。

とくにコンピュータの情報処理能力の飛躍的な向上によって、顔認証がより高精度化すると、表情の変化に表れる嫌悪や不安といった情動反応をもっと正確にデータとして記録できるようになる。そうなると、いかなるメッセージが人に嫌悪感や不安を与えやすいのかについてもビックデータが集積しやすくなる。その膨大なデータをAI(人工知能)が解析し、コミュニティーごとに効果的な扇動情報を作り出し、SNSで大規模に拡散する。その効果が選挙で猛威を振るう。そういう時代が来るかもしれない。そのことに大きな懸念を抱いている。

たしかに、今回の選挙では、キャンペーンの中核にITやサイバーの専門家が大量に動員されていた。彼らは、政治に詳しいわけでも民主選挙に思い入れがあるわけでもない。その彼らが繰り広げる「新しい」選挙戦は、高度な技術の専門知識の塊で、おそらく多くの政治学者や地域研究者とは異次元のレベルで会話が成される世界である。

ここに脳神経学やバイオメトリクスといった分野が、これから重要になっていくのであれば、筆者のような伝統的な地域研究者は、ますます選挙という政治競争の重要な場面でプレゼンスが薄れていくかもしれない。そういう「不安」に扁桃体がハイジャックされないよう、地域研究の「復権」を妄想しつつ日々の勉強に励むしかない。

そんな私的なことよりも、ひるがえって日本の選挙政治は大丈夫かという心配も当然出てくる。これ以上は筆者のキャパシティーを超えるが、早かれ遅かれ、選挙テクノロジーの進化は、目に見えるかたちで日本の政治にも影響を及ぼしかねない。

今は、沖縄など、地域限定的に分断の選挙は存在するが、全国規模ではまだ起きていない。しかし、人口減少や、移民政策、福祉政策などの変化が社会亀裂を深めたとき、情動反応の政治動員が誘発されない保証はどこにもない。世界の多くの民主主義国を蝕む病理に際して、日本はいつまでフリーでいられるのか。同じアジアの一員であるインドネシアの行方を注意深く観察していくことで、心配緩和のヒントが見えてくる可能性がある。

知のネットワーク – S Y N O D O S –

本名純(ほんな・じゅん)
インドネシア政治・東南アジア地域研究・比較政治学
1967年生まれ。立命館大学国際関係学部教授。インドネシア政治・東南アジア地域研究・比較政治学。1999年、オーストラリア国立大学で博士号取得。2000年から現職。インドネシア戦略国際問題研究所客員研究員・在インドネシアJICA専門家・インドネシア大学社会政治学部連携教授などを歴任。著書に『民主化のパラドックス―インドネシアからみるアジア政治の深層』(岩波書店)、Military Politics and Democratization in Indonesia (Routledge)、『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望』(アジア経済研究所)(川村晃一との共編)などがある。

あわせて読みたい

「インドネシア」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    収監された周庭さん 12人部屋に

    BLOGOS しらべる部

  2. 2

    安倍氏に弁護士「虚構だった?」

    郷原信郎

  3. 3

    コロナで始まった凄いデリバリー

    東龍

  4. 4

    注文待つ「Uber地蔵」街中で急増

    NEWSポストセブン

  5. 5

    安倍前首相の疑惑「詰んでいる」

    ABEMA TIMES

  6. 6

    バイキングで疑惑報道の社長怒り

    SmartFLASH

  7. 7

    本厚木が1位 住みたい街は本当か

    中川寛子

  8. 8

    GoToは75歳の年齢制限を設けよ

    永江一石

  9. 9

    桜問題で安倍前首相に再び窮地

    ヒロ

  10. 10

    集団免疫 日本が目指すのは無謀

    ニッセイ基礎研究所

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。