- 2019年06月01日 08:11
SNS俗世に依存しながら川崎殺傷ニュースをシェアするなとキレる、世界を達観した気の半端者の考察
川崎殺傷事件が起きた時「イヤなニュースをSNSにシェアする意味がわからない。そんなものシェアするんじゃねえよ、ばーか」といわんばかりの投稿を見た。
なんだそれ?SNSやネットをみれば、こうしたニュースはいやでも入ってくるだろう。ニュースをみたくないならSNSやめればいいんですよ。ネットなんか見なきゃいいんですよ。
実際にSNSやネットやテレビなんかみないで生活している人はわんさかいる。でも彼はSNSをやめることができない。なぜならSNSに依存しているからだ。
しかし彼は普段から自分はえらい、ほかのやつらはバカだ、といわんばかりの世界を達観した投稿ばかりをSNSでしている。
しかしその投稿の大半は、自分軸が定まらず自分まるだしで、さまよえる自分を励ましこれでいいんだと自己暗示をかけているようなものばかりだが、本人はそれに気付いておらず、定まっていないバカなきみたちを私が指導してやると、いわんばかりの書き方だ。
しかし彼自身が定まっていないことは、見る人が見ればわかる。
その極地が川崎殺傷事件関連の記事をシェアするなという物言いだ。
これだけ衝撃的な事件。しかも身近な生活空間で起きた、あり得ない悲劇。誰しもがその衝撃とともに、わが身におきかえて自分は、我が子は大丈夫だろうかと、案じたからこそこのニュースは大きな関心を集め、SNSでシェアする人が多かったのだろう。
シェアされるのはあたりまえの話だ。
しかしそうした一般的な「市民感覚」をわからず、自分だけ達観していると勘違いしているバカは、そうしたニュースをシェアするなと一刀両断する。
それは単に自分軸が定まっていないからだ。ニュースに自分の心を乱されてしまう。
しかも共感性が高くて、悲劇的なニュースに感情移入しすぎて悲しい気持ちになってしまう、という意味ではなく自分のしたいことやってるためにSNS使っているのに、どうでもいい自分には関係のないニュースなんてシェアするんじゃねえよばーかと、いったスタンスからの発言だった。
ならばSNSなんかやめればいいんですよ。ネットなんかみなけりゃいいんですよ。
世間の雑音を拾い集めてくるのがかつてはテレビで、もはやテレビはオワコンになったが、その代わりをしているのがネットやSNSで、でもそれは何もネガティブなことではなく、それをある意味では多くの人たちが楽しんでいる。
SNSをするということは、そうしたことに関わるということだ。ネットをみるということは、そうしたことに関わるということだ。
それがいやならやめるしかない。
っていうか別にやめなくても自分軸さえ定まっていれば、どんな投稿がされていようと自分の心は乱されないし、特定の誰かがいやな投稿をするなら、その人だけをブロックすればいい。
川崎殺傷事件は多くの人が関心を持ったニュースで、関心を持つのは当然。
しかし自分が気にくわないから、またしても神様視点になって、自分はなんでもわかった気になって、そんなニュースをシェアするなといいながら、その心はその程度で自分の心が乱されてしまう自分軸のなさをまたしても露呈したにすぎない。
結局何がしたいかわからない。達観した気になっているけど本人が一番さまよっている。だからSNS断ちもできず、ネット断ちもできないまま、むしろSNSに依存し自分軸が定まらない情けなさを他人のことにすりかえて、さも自分は世界のことをわかった気になったような投稿を日々連投することで、悩める自分を隠しているだけ。
だからニュースのシェアで、苛立ったりしてしまうのだ。
俗世と関わりたくないならSNSやネットをやめればいい。そこまでの勇気がないなら、世間の雑音が入ってくることは許容し対処しなければならない。そこまで対処できないようなメンタルなのであれば、SNSやネットをやめた方がいい。
事件の悲劇性に共感しているのではなく、そんなどうでもいいニュース、自分には関係ねえからシェアするんじゃねえよばーかと、いう悟りを開いた気になって一番自分軸が定まっていないバカの考察。
SNSをやめれない半端者の「達観お経」の連投の方がよっぽどうざいと思うんだけど、他の人たちはあんたのそのどーでもいい投稿を、俗世の雑音として許容し対応しスルーしてる。
あんたより達観してんだよばーかって思われていることに早く気づいた方がいいですよ。



