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東浩紀さんの回想と、はてな村周辺の話

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blogos.com

—— とすると、もう我々にはネットで議論することは難しいという感じなんでしょうか

いまはもう難しいですね。議論というのは本来、論点を抽出して、その勝敗を決めれば誰もが納得する結論が出るというものではないわけです。そもそも最初から意見は違うんだから。その最初の「意見が違うということ」の意味を深く考えず、勝ち負けだけ決めようとすると、不毛な罵倒合戦しか生まれない
 
自分はAが正しいと信じている。にもかかわらず、こっちには全然違うBが正しいと信じている人がいる。これはなんでなんだろう。まずはそう考えるのが大事なんです。説得や論破が大事なのではなくて、違う意見が存在するのはなぜなんだということを考えること。これは、違う考え方を持っている人に対する一種の尊敬の念がないとできないことです。そして、それがどうやって生まれるかというと、時間だったりコミュニティの感覚だったりが必要です。

 哲学者の東浩紀さんが、ネットコミュニティの10年を振り返るインタビューをBLOGOSに公開しておられて、少なくとも私はかなり共感し、ところどころ感銘を受ける部分すらあった。
 
 東浩紀さんのネット上での言動には動揺もあり、失礼ながら、東日本大震災後の一時期は揺れに揺れていたように私にはみえた。また時々エゴサーチをしていた気配があり、伴って、やたらブロックを繰り返していた時期もあった。
 
 なんらかの背景にもとづいて動揺している時には、ネット、とりわけSNSからは距離を取るのが好ましいネット処世術だと思っている私には、それらが危なっかしいもののように思えた。が、そのような時期に見ず知らずの私が何かを言っても、何かを言うだけのコンテキストが無いし、東さんがtwitterをそれでも続けざるを得ない事情があったとしても知らないわけで、私は黙ってみていることしかできなかった。
 
 そういった経緯を踏まえるなら、東さんが「説得や論破が大事なのではなくて、違う意見が存在するのはなぜなんだということを考えること。これは、違う考え方を持っている人に対する一種の尊敬の念がないとできないことです。」と述べても、難癖をつける人はいるだろうし、実際、それはあったように見受けられた。
 
 しかし私のなかでは、東さんの上掲の発言と、東さんのtwitter上でのご経験とは整合性があるように思えた。そのことを、過去のはてなダイアリーとはてなブックマークの時代、つまりはてな村を思い出しながら、あれこれ語ってみる。  

「議論できる場」としてのはてなダイアリー・はてな村

 冒頭リンク先の文章で、東さんは「はてなダイアリーには村に所属している意識があって、議論もできていた」と書かれている。
 
 そうだったと思う。少なくとも、今日のはてなブログのありよう、ましてtwitterのありように比べれば、はてなダイアリー(とそれに付随するはてなブックマーク等)はアカウント同士の議論が成立しやすい場だった。大まかに言って、それは「はてな村」という言葉が現役だった時期とだいたい重なり合う。
 
 はてな村ではなぜ議論が成立しやすかったのか。東さんは、「はてな村」への所属感があったから、アカウントの名前とアイコンをお互いに認知できていたから、世の中ではマイナーなものを自分たちがやっている自負心があったから、といった要素を挙げているが、どれもそのとおりだったと思う。
 
 はてな村のメンバーは村全体の歴史やイベントを共有していて、誰と誰が揉めていたのか、誰が何をやらかしたのか、誰がどんな性向を持っているのかをお互いによく知っていた。
 
 たとえばここに列挙されている揉め事、出来事のたぐいも、当時現役だったアカウントならだいたい知っていることだろう。そのうえ、それぞれのアカウントがどのような出来事にどう反応するのか、お互いに予測することもできた。「顔のみえる付き合い」という言葉があるが、はてな村は「アカウントとアイコンのみえる付き合い」のコミュニティだった。だから極端なことをいうアカウントがいても「あの人はあれが平常運転だから」とあまり気にする必要も無かった。とりわけ周りがそのように見ているなら、自分もそのように見やすかった。
 
 もちろん、どこのネットコミュニティにもどうしようもない人、サークルクラッシャー的に作用してしまう人はいて、それらがはてな村でも火種になっていたことは付記しておく。
 
 とはいえ、はてな村というコミュニティがあり、お互いに見知った仲だったからこそ議論の場が成立していたのだろうと思うし、そうした見知った仲を深めていくアーキテクチャとして、はてなブックマーク、idコール、はてなキーワード、はてなハイクなども機能していたように思う。
 
 それと当時のはてなダイアリーの時間感覚と、議論の形式。
 
 はてな村は長文のやりとりを厭わないコミュニティだった。twitterに比べると長いタイムスパンで、お互いの思うところを応酬しあっていた。はてなブックマーカーもしばしば自分のブログを持っていて、長文を書くためのホームグラウンドにしていた。誰かのブログ記事がトピックスになると、複数のブログが反応して関連する記事を書き、それらがトラックバックを介して繋がりあっていた。トラックバックを介して繋がりあっていたから、複数の意見を後から追いかけることもできた。
 
 東さんは、議論とは、「説得や論破をしなければならないものではない」とおっしゃっていたが、私も同感だ。
 
 ひとつのブログ記事に、誰かが関連したブログ記事を書き、それらが読み比べられる状態になっていれば、私はそれで議論は成っている、と思う。どちらか一方だけを正しいとみなすのでなく、複数の意見が通覧できる状態になり、それらを後から読み返す人が自分なりに考えられる状態ができあがったなら、たとえ誰かを論破していなくても、たとえ結論が出ていなくても、それを議論と呼んで良いのではないか。
 
 当時のはてなダイアリーには、時間をかけてでも長文を書いてトラックバックを交わすという習慣や気風が残っていた。それも、仲良しに対してだけトラックバックするのでなく、誰が誰に対してであれ、対等に議論に参加して構わない習慣や気風があった。ただし対等であることによって、零細ブログが書いた曖昧なブログ記事にアルファブロガーが厳しいトラックバックを送ってくることもあり得たし、その逆もしばしば起こった。このあたりも「はてな村は怖い」「はてなは殺伐としている」と指摘される一因になっていたかもしれない。
 
 お互いに「アカウントとアイコンが一致」する間柄で、はてな村というコミュニティの歴史を共有していて、はてなブックマークをはじめとする複数のアーキテクチャで繋がりあったはてな村だからこそ、あの時、あんなに議論に熱くなれたのだと思う。議論の質の高低はここでは於こう。だが、議論しても構わないという雰囲気と、議論をするためのアーキテクチャが、往時のはてな村には揃っていた。  

「議論できない場」の典型としてのtwitterと、アカウント非対称性問題

 twitter、とりわけ沢山の人に使われるようになった2010年代以降のtwitterは過去のはてな村とは対照的だ。
 
 ツイッターランドはあまりにも広大で、アカウントとアイコンが一致するような「顔パス」の関係など作りようがない。twitterにはフォロー/被フォローという仕組みがあり、自分の視界をデザインできるが、往時のはてな村のような、さまざまな思想信条を持った人が一定のまとまりのコミュニティ意識を持ち、お互いに顔見知りになっていくのに適したアーキテクチャではない。
 
 twitterは、思想や嗜好の共通した者同士を強く結びつけるが、思想や嗜好の異なった者同士が同じコミュニティに所属し、はてな村のような意識を持つにはまったく向いていない。
 
 文字数も良くない。twitterは、ひとまとまりの意見を交わすには全く向いていない。もともとtwitterはつぶやきをつぶやくためのツールとして出発したのであって、議論を交わすためのツールとして出発したわけではない。複数のツイートを連ねても、それは140字以内のつぶやきの応酬にしかならない。togetterは、そういったtwitterの議論しにくい性質を垣間見るには絶好のツールになってしまっている。 


メディア論―人間の拡張の諸相

 マクルーハンが言った「メディアとはメッセージである」というあれになぞらえるなら、twitterというメディアはそれ自体、人を議論させるのでなく、似た者同士を共鳴させ、思想信条が異なった者同士を分断させるメディアではないだろうか。  

 私は、SNSは、人に自由にオピニオンを語らせる社会装置ではないと思う。むしろ、本来なら言わないで済んだはずの言葉、言語化するどころか意識にすらのぼることすらなかったはずの言葉を、巻き込むように吐き出させる社会装置ではないだろうか。
 加えてSNSには、フォロー/フォロワー、リツイート、シェア、いいね、ブロックといった機能がある。これらの機能により、SNSには似た者同士が群れやすく、そうでない者同士が結び付きにくいSNSならではの偏りが生じる。
 引用:SNSは人を「繋げる」より「分断」している | Books&Apps

 はてなダイアリー上では議論できていた人が、twitter上では政治の渦に巻き込まれ、異なる思想信条を非難するスピーカーになり果ててしまうのは、よくあるパターンだし、ある程度は仕方のないことだと思う。よほど意図してさえ、twitter上で議論をやってのけるのは難しい、なにせ議論は相手(や第三者)あってのものだから、自分一人では成立しない。そして自分自身はもちろん、相手も第三者もtwitterというメディアの上では議論するよりツイートするように自ずと振る舞ってしまうのだ、なぜならtwitterというメディアがそういうものだから。
 
 こうした、twitterをはじめとするSNSの影響下のもとに、現在のはてなブログの世界があると、私はみている。
 
 元々はてなブログは、トラックバックを廃止したり、コミュニティとしてのはてなダイアリーにあった機能を削ったきらいがあった。そこに、twitterもやっているような新規のブロガーが続々と入植し、2015年以降はブログでお金儲けしたがる人々がやたらと目立つようになってしまった。ユーザー数は、はてな村時代よりもずっと増え、「アカウントとアイコンが一致する関係」はますます成立しにくくなってしまった。
 
 現在のはてなブログで00年代のような議論を、同じはてなのユーザーだからというよしみでやってのけるのは難しい。そもそも、議論、という様式じたいが避けられているようにもみえる。はてなダイアリー時代と同じ感覚で余所のブログに言及した時、いったいどのような結果が起こるのか全く予測できない。少なくともはてな村的な、「ここは自由に議論しても構わない場所」といったコンセンサスははてなブログには無い。  

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