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「ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている」批評家・東浩紀が振り返る ネットコミュニティの10年

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批評家・東浩紀氏のエッセイを集めた著書『ゆるく考える』(河出書房新社)が好評だ。同書には2008年から2018年の間に書かれた同氏の文章がおさめられており、その考えの変遷を辿ることができる。

今回、同書の内容に加え、この10年の「ネットと政治」の関係や、今後注目されていくであろう新たなコミュニティの可能性について、東氏にたっぷりと語ってもらった。【写真撮影:飯本貴子】


変わったのは「ネットを使うと新しい時代が作れる」という希望の有無

—— この10年、形を変えながら様々な活動をしてきたと思いますが、振り返ってみていかがですか

もともと僕は難しいタイプの哲学や批評をやるところからスタートしましたが、ゲンロン(編集部注:東氏が立ち上げたイベント、出版事業をおこなう企業)という会社をやり始めて、今までの哲学とか批評の言葉の限界というのを強く意識するようになりました。

大学人や物書きをやっている間は、付き合う人は編集者が多かったし、読者と頻繁に会うわけでもない。その読者も限定されていたので、あまり言葉の限界に気が付かなかった。

ゲンロンを作って以降、本来の哲学や批評というものはもっと広い形のものだと強く思うようになりました。そこで自分の表現も変えていくことにしました。

—— 東さんはネット時代の論者という見られ方をすることも多かったと思います。ネットを通じて発信をするということについては、この10年、どんな変化があったとお考えですか

10年前と今とでもっとも違う点は、「ネットを使うと新しい時代が作れる」という希望の有無だと思います。僕はその希望はもうないと思っている。

もちろん、多くのひとが今でもそう信じてるでしょうし、部分的にはよくなる部分もあると思います。けれど、社会全体としては、結局ネットやSNSが普及しても、それだけでは世の中よくなるわけじゃないな、というのはコンセンサスがとれてきたのではないでしょうか。

僕は1971年生まれで、Windows95がブームになったときに24歳くらい。まさにインターネットが世界を変えるようすを目の前で見てきた世代だったので、ネットで世の中をよくするとしたら自分たちの世代が第一陣だろう、という自負がありました。

実際、2000年代は僕も30代で、若い世代とネットの力で世の中を変えられるんじゃないかと思っていた。テレビでそんなことも言ったりしました。ところがそれはダメだった。少なくとも、そんな単純な話じゃないということがわかってきた。その中で、僕自身、元気のいいことを言うのではなく、もう少し深く足元を見つめる方向に変わっていきました。

——「ネットで世の中は変わらない」と思ったきっかけはなんだったのでしょうか

それは数多くあったと思いますが…、ひとつ挙げるとすれば震災のあとの国会前デモですね。反原発からSEALDsに至る流れ。僕の中ではあれが不発だったのがとても大きかった。同じ頃、世界ではアラブの春とかニューヨークのオキュパイ・ウォールストリートとかがあって、日本の国会前デモもまたそれらと同じSNSを使った祝祭型のデモだった。2010年代にはそういったデモが世界中で起きました。けれども結局は、一時的に盛り上がるだけで、ほとんど何も成果が出ずに忘れさられてしまう。日本でもそうでした。そういう光景を見て、ネットはお祭りを作ることしかできないと思うようになりました。

SEALDsもちゃんと持続可能な組織に育てばいいと思ったんですけどね。でもなぜか解散するのが潔いみたいな話になってしまいました。持続可能な、面倒なことはみんなやらないんですよね。

—— 確かに、一過性の集まりだけでなく、みっともなくてもちゃんと続けていって、条文をちょっとでも変えるとか、そういうことを目指してもいいと思いますね

日本の場合、もともとの同調圧力の文化とSNSがくっついてしまったために、とくに「祭り志向」の時代になってますね。

とにかく、いろんな人が同じ方向を向いていて、ぱーっと盛り上がって、すぐに忘れてしまう。そして、ちょっと違う意見の人たちをみんなでいじめて、いじめられた人がアカウントを削除したらすぐ別の標的を見つけての繰り返し。削除したアカウントのことなんて翌日には誰も覚えてない。


ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている

—— SNSでは議論はできない?

できませんね。日本では原発事故のあと、原発の是非が議論になりかけました。けれど、SNS上ではあっという間に原発賛成派と反原発派の罵り合いになってしまって、対話も何も生まれなくなってしまった。みなが毎日同じキーワードで検索をかけて、自分と違う陣営の人を見つけてはスクラムをかけて潰す、そんなことをやり合うだけの道具になってしまった。

その点では、ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている。フェイクニュースとかポストトゥルースといわれていた現象で、これもいまはみなわかっていることだと思います。

—— マイナスのイメージが強くなってしまったんですね

SNSは人々の生活を窮屈にしている。インターネットを使っても、人間は全然賢くならない。むしろ愚かな部分が増幅されていくだけ。当たり前ですが、世の中を変えるためには、まず人間を変えなければいけない。新しい技術が来たから新しい世の中が出現するというものではない。そんな非常にシンプルなことを感じ続けた10年でした。

—— SNS以外はどうですか?

問題は「リアルタイム」が重視されすぎていることです。いいかえれば、みな時間の価値を軽視しすぎている。ゲンロンカフェ(編集部注:ゲンロンが運営するイベントスペース)では動画の中継をやっていますが、そのプログラムでは、コミュニケーションには一定の時間がかかることを前提にしています。他人の意見を理解するためには3分のパワーポイントではダメなんですよ。それでは、自分がその人に期待していることを確認するだけで終わってしまう。人格が見えてこないから、ちょっとでも違うと思ったら攻撃してしまう。

これはよくいうんですが、ゲンロンカフェは、TEDなら3分で済むところを3時間かけてやる場所です。残りの2時間57分で何をやっているかというと、その3分の背景にある人格を見せているわけです。なぜそんな一見無駄なことをしているかというと、そのような部分があると、たとえその人が間違ったことを言ったり、ミスをしたりしても、その背景の文脈がわかるからです。そうすると、批判する側も一歩ふみとどまって考えることができる。そしてそこから対話が始まったりする。そういう対話を作るためには、どうしても登壇者や視聴者を一定時間拘束するというか、話に付き合わせる必要がある。

—— 脊髄反射的な攻撃をされにくいようにしているということですね

そうです。もうひとつ、ゲンロンカフェの中継ではプログラムは番組単位で買ってもらうようにしています。無料公開して盛り上がっているところに投げ銭してもらうほうが、いまはメジャーな中継方法です。実際に収益性も高いのかもしれないけど、そうすると登壇者の言うことは変わってきます。誰もが極端な発言で盛り上がることばかり目指すようになってしまう、あるいはその逆に炎上しないことばかり考えてしまうので、議論の質が変わってしまうんですね。

僕はネットは否定しません。現にいま、うちの会社ではそうやって一定時間の「無駄な部分」をひとつのパッケージのなかに入れて売ることをやっているわけですが、こういうことを意識すればネットもコミュニケーションをよくするために使えると思います。ただ、今はプラットフォーマーもコンテンツを作る人たちも、とにかくリアルタイムで瞬時に沢山の人に共有されるものを目指している。そして、スケールさせてお金を集めようぜという話しかしない。これだと提供できるものの質が限定されてきますね。

—— 確かに、ネット上のコンテンツはシェアされるためにどんどん短く、早くなっているように感じます

猫の動画とかを紹介しているうちはいいし、それはそれでいいんでしょうけどね。でも、それは議論には絶対向かない。つまりは、ファスト志向のリアルタイムウェブには向いているものと向いていないものがあって、なかでも政治は一番向かないものなんです。政治をネットに使うときはそこを真剣に考えなきゃいけない。

プラットフォーマーが別のサービスを開発してくれればいいんですけどね。でもとりあえず短期的な収益を考えると、今の流れが必然なんでしょう。

コミュニティ意識のあった「はてなダイアリー」

—— ちょうど10年くらい前、まだ今ほどリアルタイム重視のSNSが盛り上がっていなかった頃、ブログ論壇みたいなものが注目されていましたが、そのときは長い記事を書いている人も多かった気がします

あの頃はみんな長文を書いていましたね。

—— でも、真面目にやっていた人ほどいなくなってしまった

長くちゃんとしたブログを書いている人たちが、世の中のダメな反応に疲れて消えていった。僕も気持ちはわかります。

ブログの評価基準がPVしかないんなら、炎上するのが一番だということになる。じゃあ過激なこと言っときゃいいか、となっちゃうわけです。PVではない基準があればいいんですが、結局そこでリターンを作れなかった。PVがなかったとしても、きちんとした文章を書けばしっかりした承認がもらえ、未来の仕事につながるという信頼があれば、ブロガーたちも残っていたはずです。

つまり、ブロガーたちを育ててくというか、維持していくというのは、ネットのサービス作ってあとはお任せではダメだったんだと思うんですよ。ブログ論壇のコミュニティを育てる企業や人がいなかった。受け皿がなかったということですね。


—— これまでの日本のネットで、東さんが考えるコミュニティの原型みたいなものはありましたか

はてなダイアリー(編集部注:株式会社はてなが運営するブログサービス、現在は閲覧のみ可能な状態)ですね。あれはすごく可能性があった。日本でいまブログ論壇と呼ばれているものを最初に作ったのは、はてなダイアリーだと思う。

はてなダイアリーは、なぜだったかわからないですが、意見が違ってもみんな「はてな」に所属しているという独特の感じがありました。いまでも「はてな村」ってよく言いますけど、あれは別に蔑称で使うべきものではなくて、「俺たち同じ村に所属してるんだ」という感覚があったからこそ、実は議論もできていた。それがみんなバラバラにいて、みんなで爆弾を投げあうような感じになってしまうと、ただ相手を潰せばいいということになってしまう。

はてなダイアリーが無意識に持っていたあのコミュニティ感というものを、上手く次のサービスにバトンタッチできなかったのは、すごく残念なことだなと思っています。

—— 確かに、はてなダイアリーでは色々な論争があって、それぞれの立場から意見が出て議論も盛り上がっていたように思います

僕の個人的な記憶では、あのとき有名なはてなダイアラーの名前はみなお互いに認知していました。誰と誰の仲が悪いとか、喧嘩になってるということがあったとしても、トータルには仲間意識があった。それは世の中からすれば、まだまだブログやSNSがマイナーで、そのマイナーなものを自分たちがやっているという自負心があったからかもしれません。

そのコミュニティ意識はとても大事だったはずですが、あまり重要視されなかった。その後、ブログは一般化し、コミュニティ感がなくなって議論ができなくなった。時代の必然ですけどね。

—— とすると、もう我々にはネットで議論することは難しいという感じなんでしょうか

いまはもう難しいですね。議論というのは本来、論点を抽出して、その勝敗を決めれば誰もが納得する結論が出るというものではないわけです。そもそも最初から意見は違うんだから。その最初の「意見が違うということ」の意味を深く考えず、勝ち負けだけ決めようとすると、不毛な罵倒合戦しか生まれない

自分はAが正しいと信じている。にもかかわらず、こっちには全然違うBが正しいと信じている人がいる。これはなんでなんだろう。まずはそう考えるのが大事なんです。説得や論破が大事なのではなくて、違う意見が存在するのはなぜなんだということを考えること。これは、違う考え方を持っている人に対する一種の尊敬の念がないとできないことです。そして、それがどうやって生まれるかというと、時間だったりコミュニティの感覚だったりが必要です。

ところが、今のネットでは、この根本のところが忘れられて、とにかく論破すればいいということになっている。裏返せば、いま重要なのは、ネットサービスの中でどうやってコミュニティ感とか時間というのを回復するかってことですね。

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