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- 2012年04月28日 20:25
もう一つの「官僚たちの夏」
1/2通産省は私の古巣ですが、その看板であった「産業政策」について、私は以前から本ポストのような見方をしてきました。なので、農協のTPP反対論にも「違う」という思いを禁じ得ないし、いまの中国を見ていても「・・・」としか思えないのです(笑)
もう一つの 「官僚たちの夏」
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小説 「官僚たちの夏」 (城山三郎著 新潮社刊) は1975年に出版されたが、「国家を熱く語り合い、産業振興に邁進する役人」 の姿は、いまも日本人の郷愁を誘うらしく、昨夏には改めてTBSでドラマ化された。「坂の上の雲-戦後経済版」 とも言える。かく言う筆者も大学時代にこの本に魅了されて通産省に入った、ところがある。
しかし、役所で仕事をし勉強もしていくと、本書で描かれた 「特振法」 的な産業政策に疑問を覚えることが多くなった。もちろん、1950年代と1980年代という時代の違いがあるが、それだけではない。根底にあるのは 「市場経済」 というものをどう捉えるかという 「経済」 観の違いである。
「官主導の産業政策」 は上手くいかない
「市場は失敗する」、「官」 の指導があれば、経済はもっと良くなると見るのが官主導の産業政策肯定派、これに対して、いやいや産業・経済の運行の瞬間、瞬間を観察すれば、「官の介入」 が欲しくなる場面はあるだろうが、「官の介入」 を制度化、常態化することによる弊害は 「市場の失敗」 を上回る、と見るのが市場経済肯定派と言えるのではないか。筆者は後者に立つ。チャーチルは 「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」 と言ったそうだが、「市場経済」 もなにやら似ている。
「産業政策」 にも強弱、硬軟いろいろあるが、「官主導の産業政策」 は上手くいかないと思う理由は、大きく3つある。
第一は 「官の介入」 は 「平等性」 「公平性」 を求められるので、「効率」 を犠牲にしがち、ということだ。政治的に重要な産業ほどそうなる。例えば、設備投資を許可制にすると、業績が伸びている優良企業A社に許可を出し、落ち目のB社には出さない、という 「不公平」 が正当化しにくい。平たく言えば、役人はそこで文句を言うb社長に 「それはあなたよりもa社長の方が経営の才覚があるからですよ」 とはなかなか言えない。よって、役所がこの種の 「枠」 配分をするときは、たいてい現在の設備や生産量に応じた 「プロラタ」 (“Pro Rata”、比例按分) をやることになる。でも、それでは 「官の介入」 が不効率を経済に不断に埋め込む作用を果たすことにならないか?
もちろん、経済を 「優勝劣敗」 「市場の淘汰」 一辺倒で運営すれば、猛々しい資本主義が横行し、非人間的きわまりない社会が出現するから、市場の失敗を是正・補完する 「官の介入」 は不可欠だ。社会保障制度や反独占政策は代表例である。しかし、それは 「官主導」 とは別物の、補完的、控えめな 「介入」 である。
「官主導の産業政策」 は上手くいかないと思う第二の理由は、「官の介入」 が許認可や慣行化した行政指導によって 「制度化」 されると、企業は 「官の出方」 を先読みして裏をかく行動に出るようになるからである。設備過剰による 「過当競争」 を是正するため、政府が投資抑制に乗り出す、といった場合が好例である。過当競争が深刻化し始めると、抑制措置の前に 「駆け込み競争」 を誘発してしまい、過当競争はいよいよ激化してしまう。80年代に大店法に基づいて行われた大型小売店の出店抑制などは、その典型だった。
第三の理由は、「官の介入」 が制度化されると、役所は 「権限」 「権益」 の維持それ自体を目的として行動するようになり、手段だったはずの 「介入」 が本末転倒を引き起こすということである。これについては多言を要しまい。
「通商派」 官僚の証言
「官僚たちの夏」 とは対照的な一冊として 「戦後産業史への証言(一)」 (1977年 毎日新聞社刊) がある。何時、どういうきっかけで本書を読んだのか記憶が定かでないのだが、そこに収められた今井善衛元通産次官の言葉は、筆者に鮮烈な印象を遺した (「自由化の推進」149頁~)。
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今井は 「官僚たちの夏」 に 「玉木」 という仮名で登場する 「通商派」 である。戦中・戦後の統制経済をやった経験から 「官の経済介入は上手くいかない」 という信念を持ち、かつ、戦後の世界経済がIMF/GATT中心の 「自由貿易体制」 に向かうことを早くから見据えて、「風越」 (佐橋滋) ら 「民族派」 と一線を画した通産官僚である。本稿末尾に、同書から今井の言葉の 「みそ」 の部分を抜粋・引用してご参考に供する。
冷たく言えば、昭和30年代の通産省 「民族派」 というのは、世界の趨勢が見えていない 「KY」 だった。「世界の趨勢」 というのは、第二次世界大戦前に起きた通貨切り下げ競争や保護貿易主義 (経済ブロック競争) が戦争を招いたという反省から、戦後IMFやGATT (WTOの前身) による 「戦後秩序」 が誕生していたことだ。戦争直後の混乱期は、特例として貿易制限 (関税よりもっと強烈な外貨割当による輸入制限が中心) が認められていたが、戦後10年を過ぎる頃から各国経済が復興し始め、IMF/GATTの本旨に従った「自由貿易」 体制が本格始動したということである。自由化はまず、貿易収支を理由とした輸入制限 (外貨制限) をしないこと (=IMF8条国の義務) から始まり、やがてGATTによる関税引き下げ (ラウンド交渉) やOECDを舞台とした資本自由化へと発展し、戦後世界経済の成長を助けた。
「官僚たちの夏」 には、特振法のオルグに出かけた風越に向かって銀行界が極めて冷ややかな反応を示す場面が描かれている。同書では、部下に慕われる熱血漢だが傍若無人な風越と慇懃な銀行紳士たちの肌合いがまったく合わない風に描かれているが、それだけではないだろう。本稿末尾に引いた今井の回顧に登場する東銀の堀江薫雄 (や興銀の中山素平も登場する)、池田勇人総理らの眼には風越たち通産 「民族派」 が 「世界の趨勢を知らぬ時代遅れの田舎者」 に映っていたのではないか。
民族派が世界の趨勢に暗かったことには理由がある。佐橋、今井らの世代は「資本主義=終末」 観が世界を風靡し、共産主義と国家社会主義が盛行した1930年代に役所に入り、「1940年体制」 (「国家総動員」 体制) 下で中堅となった世代だ。敗戦後、GHQは役所にはあまり手を付けなかったから、人と行政手法に強い連続性があったことは野口悠紀雄教授の言うとおりであり、筆者が役所に入った80年代になっても 「原課行政」 には 「1940年体制」 の残滓が残っていた。
加えて、戦後日本は国内で喧々囂々の討議を経ずに、したがって十分な自覚や信念のないまま、 IMF/GATT体制に加入した、という経緯がある。当時はまだ 「占領」 が続いていたからである。1949年設立直後のGATTでは、GHQ係官が“on behalf of occupied Japan”としてオブザーバー発言した記録が残っている。IMF加盟申請は1951年、加盟はサンフランシスコ講和条約の1952年だ。GATT加盟申請は1952年、加盟は1955年だ。条約のことであるから、外務省は占領当時も参画していただろうが、通産省では、海外勤務で蒙を啓かれる経験をした極少数の人 (今井もその一人) しか意識していなかったのではないか。そう考えると、戦後に入省した 「若手」 多数が特振法を強く推進した理由も推察できる。
「官僚たちの夏」 の著者城山三郎にもIMFやGATTは見えていない。それは海外経験として本書に登場するのが、風越の部下 「牧」 がフランス勤務で学んできた 「官民協調体制」 くらいしかないことで明らかだ。(但し、改めて本書を読み直してみると、城山三郎は風越と彼を慕う若手に、人間として強い共感を感じてはいるのだが、彼らの考え方と行動には一定の距離を置いていることが感じられた。)
栄光の通産省をもたらしたもの
けっきょく、その後の通産政策は世界の趨勢に従って、貿易自由化、資本自由化を進めていくことになる。「特振法」 にかけた民族派の願いは儚く潰えて、通産省が産業の保護・統制手段を次々と手放していった過程だった。
もちろん、個別産業では 「特振法」 的要素も残存した。最も強力な色合いを遺したのは石油、航空機といった 「業法」 ができた分野だろう。通産省が最も強力に 「産業政策」 を推進したが、最も上手くいかなかった分野である (筆者はその両方を経験した)。中間に位置するのは電子産業、これはまあまあ成功した。いちばん発展したのは自動車産業。今井が述懐するように 「いちばん保守的で (初期の) 自由化に激しく抵抗した」 業種だが、実はその後、通産省の自動車産業政策には見るべきものがない。業界人は戦後の発展のきっかけとして、石油ショックや米国で導入された排ガス規制 (マスキー法) を挙げる。世代交代による忘却のなせる業もあるだろうが、こんにち 「政府のおかげで発展した」という意識は薄い。このように、「特振法」 的な産業政策は一部で採用されたが、その効果と影響力は限定的だった。
総体として見たとき 「産業政策の成功」 と評価できるものがあるとすれば、今井が述懐したように、IMF/GATTといった 「世界の趨勢」 (外圧) を挙げて 「保護はやがて撤廃されるから、早いうちに覚悟と準備をしろ」 という 「指導」 を巧みに行い、それが企業や業界の成長に欠かせない正しい 「予見」 を与えたということであろうと思う。言ってみれば 「保護・統制の撤収戦」 が産業政策の精華だった、という皮肉な結末である。
この過程で産業界は力を付けて、やがて 「世界一」 へと駆け上がっていく。筆者はある意味で、この時期の通産省が目先の権限縮小に抵抗せず、むしろ 「自由化」 に巧みに乗ったことが、後の通産省の栄光をもたらしたのではないかという気がする。結果的には 「通商派」 (市場派) が 「特振法」 後の主導権を取ったことが幸いしたということである。
役所と官僚の 「人事考課」
その功労を以て、通産省は 「一流官庁」 と見なされ、他省が羨む処遇 (豪華、多数の天下り先etc.) を得た。その過程は、担当部門の調整を上手くやり、業績に貢献した社員が会社の上級役員に出世する様に似ていなくもない。
同じ喩えを用いるならば 「失われた20年」、この社員のパフォーマンスはどうだったであろうか。幹部に世界の趨勢を見据えた長期展望 (中国語で言う「遠見卓識」) の持ち主がどれだけ居たであろうか。おまけに90年代は、政治が官僚から奪権を図る動きが起きた (「遠見卓識」 で官僚を凌ぐというより 「バッシング」 頼みの奪権でしかなかったけれど)。
筆者は90年代の後半をほぼ北京駐在で過ごした。赴任前には 「国家は我々が動かす」 という官僚の 「気負い」 が未だ遺っていたが、帰国してみたら 「私たちは選挙の洗礼を受けている訳でもないので…」 という 「俯き」 目線が主流になり、代わりに 「大臣が大臣が…」 という雰囲気に変わっていた。
それは喩えて言えば、事業本部長・常務だったのが上に統括副社長が来て、権限は実質平取クラスに降格されたようなものだ。おまけに会社の業績は終始右肩下がり、と来ては、処遇がダウンするのも 「世のことわり」 だろう。
若い後輩たちには、今井のような 「遠見卓識」 を具えることを期待したい。そのためには勉強、研鑽が必要だ。バッシングに悩み、意義を見出せない消耗仕事に囲まれる毎日かも知れないが、「見るべきもの」 を具えれば、「見る人は見る」 のである。
平成24年 4月28日 記



