
「広告の仕事は自分の天職。生まれ変わっても同じ仕事をしたい」と語る箭内道彦氏。だが、東京藝術大学卒業後、博報堂に入社してからのキャリアは決して順風満帆なものではなく、暗中模索の日々がなんと7年も続いたという。果たして彼は、何を足がかりにして「天職」を見つけたのだろうか?
取材・文/ボブ内藤 撮影/公家勇人
入社して最初の7年間は暗黒時代だった
みんなの介護 箭内さんが博報堂の入社面接で、高校時代に作った「焼肉の歌」というコマーシャルソングをギターで弾き語りしたという伝説がありますが、本当に起こったことなんですか?
箭内 ええ、本当です。博報堂は第一志望じゃなかったので、緊張もせずに好き勝手やってましたから。
みんなの介護 第一志望は、どんな会社だったんですか?
箭内 サンリオです。僕がデザインした便せんに中学生がラブレターを書いて、それで恋が実ったら素敵だな、なんて夢を持ってまして。だけど、その年は「男子は採らない」と社員の方に言われて片思いに終わってしまったんです。
一方、博報堂のほうは最終の役員面接まで進むことになって、「この会社に入って何がしたい?」と質問された僕は、あいかわらずキラキラした目で「人を幸せにしたいんです」なんて答えていました。
そのとき、当時の副社長だった人にこう言われました。「君はそんな考えでウチに来たら、挫折するよ」と。
そんな感じでしたから、役員面接での僕の評価は最下位で、それでも現場の人たちが「アイツは面白そうだから」って僕を引っ張りあげてくれたということを、後になって知りました。
みんなの介護 「人を幸せにしたい」って、とても立派な夢だと思いますけどね。
箭内 立派なのは確かかもしれないけど、それを実現するのはすごく大変なことなんですよ。入社してすぐに壁にぶち当たって、そのことに気づかされました。
何もかも自分の思い通りに行かなくて、もがき続ける日々が7年くらい続きました。その中には、仕事がひとつも来ない数年間というのがあって、とにかく暗闇の中で暮らしているような日々でした。
そんな状態から何とか抜けだそうと、デザイナーからCMプランナーへの配置替えを希望しても、なかなか受け入れてもらえなかったですしね。
みんなの介護 CMプランナーを希望したのは、デザイナーのように一部分で仕事をするのではなく、全体を統括する仕事をしたかったからですか?
箭内 いや、そこまでは考えてなかったですね。前編のインタビューで、自分の限界を福島のせいにしていたことをお話しましたけど、それと同じです。
仕事が上手くいってないのはデザイナーという職種のせい、今のチームのせい、上司のせいって、自分以外のところに責任をなすりつけてたんだと思います。
「7年後にやってきた転校生」になるため大奮闘
みんなの介護 とはいえ、数年後に職種転換が認められてからの箭内さんは、タワーレコード「NO MUSIC, NO LIFE.」を手掛けるなど、大ブレイクします。その選択は、大正解だったのでは?
箭内 結果として、たまたまそうなっただけなのかもしれないと思ってましたね。だから、自分が作った広告が褒められて、メディアから取材を受けたりすると、なるべく過激なことを言おうとしてました。
「広告の既成概念をぶっ壊したいんです」なんて大口を叩いて自分を大きく見せて、次の仕事をとろうなんて考えて(※編集部注 その発言の一端は講談社刊『87156』などの語録集にまとめられている)。
みんなの介護 過激に見えて、けっこう計算高かったんですね?
箭内 いやらしいですよね(笑)。今思えば、7年間の暗黒時代に戻るのが怖かったんだと思います。「7年遅れの1年生」じゃ意味がなくて、「7年後にやってきた転校生」にならなきゃならないって、自分に言い聞かせていた。
みんなの介護 でも、ミュージックビデオの監督にCMの撮影を依頼したり、CMに出演したことのないミュージシャンや俳優を起用したり、箭内さんが「広告の既成概念をぶっ壊す」CMをつくり続けていたのは事実ですよね?
箭内 それが、7年生のCMプランナーたちと競い合うための自分なりの手段だったんです。
みんなの介護 髪を金色に染めたのは、その頃ですか?
箭内 CMプランナーになって2年目の年です。「見た目はチャラくて、仕事がイマイチ」だとカッコ悪いですよね。外見に見合う面白いものを作らなくては、という状況に自分を追い込んだわけです。
ある役員は、そんな僕と廊下ですれ違うたび、「カッコじゃなくて、つくるもので目立てよ」と呆れ顔で言ってましたけど、自分の中では確固たる理由がありましたから、独立後の今に至るまでこのスタイルは変えていません。改めて数えてみると、もう21年も黒い髪の自分の顔を見たことがないことになります(笑)。