- 2019年05月20日 13:53
対話プロジェクト「ドイツは話す」――ドイツ社会に提示されたひとつの処方箋 - 穂鷹知美 / 異文化間コミュニケーション
2/3対話プロジェクトにのぞんだ人たちの反応
初回開催からたった1年で、このようにプロジェクトに共感し参加するメディア企業や人々、国がヨーロッパを中心に増えたこと。これは、現在、ドイツに限らず国内で対話が減り対立がむしろ増えていると認識し、同時にそのような事態を少しでも緩和できるようになにかすべきだ、と思っている人々が、少なくなかったことを示しているでしょう。
実際に対話を体験した人たちは、対話後どんな印象をもったのでしょうか。参加した人たちの様子や個々の意見については、『ディ・ツァイト』のオンラインのサイトで詳しく紹介されていますが、プロジェクトに参加した人たちからの感想でもっとも多かったのは(一回目の対話のあと)、意見の違う人とはまったく話せないだろうと思っていたのに、実際に会ってみたら共通することが結構あり、自分とそれほど違わなかったというポイジティブな驚きでした(Faigle, 2018)。二回目の対話プロジェクトの後では、90%以上の参加者が、話し合いがなにかもたらしたか、という問いにイエスと答えています(Schöpfer,2018)。
たった一度の1時間の対話でどのようにしてこれほど圧倒的に肯定的なフィードバックがもたらされたのは興味深いですが、それがどうしてなのか、参加者の心情にどのような変化があったのか、などについては、ここからはよくわかりません。このため、一般的な理解の範囲内で、その理由をまず推測してみます。
ちなみに、ボン大学では、このプロジェクトが実際に人々にどのような効果を与えるのか(ステレオタイプの理解が減ったり、ほかの意見の人への理解が高まるのかなど)を調べる研究をはじめたといいます(Schöpfer,2018)。
対面型の対話のボーナス効果
対面型の対話とそうでない対話の場合を比較して、理由を考えてみます。ソーシャルメディアなどバーチャルな空間で意見を交わす場合は、相手がどんな人なのか具体的にみえてきませんし、自分が誰かも相手にはよくわからないため、お互いに発言に抑制がききにくくなり、暴言や誤解をうむ発言がでやすくなります。
これに対し、人に面と向かって、しかも対話することを主旨にして集まる今回のような状況では、目の前にいる相手に一定の節度が保たれやすくなり、またこのプロジェクトの主眼である、自分と意見が違う相手の話を聞こうとする意志や態度は、相手側に自分に対するレスペクト(尊重)や誠実さとしてうつるのではないかと思われます。
対話の席でお互いが、誠実に相手に向かいあおうという態度をみせた時、その先はどうなるでしょう。当然、双方ともに好印象を抱きやすくなるでしょうし、そうなると基本的に気持ちに余裕ができて、意見が対立していても、かたくなに自分の意見を主張する強硬な態度にはでにくく、相手の話も耳に入りやすくなるではないかと思います。
つまり今回のプロジェクトにおいて、直接対面して話すよう人々を差し向けたことで、すでにコミュニケーションの好循環ができやすい環境ができた、といえるのではないかと思います。平たく言えば、今回の対話プロジェクトは、一対一の対面型の対話にするという設定にした時点で、話し合いの内容とは関係なく、バーチャルな空間の対話にはない(好感のもてる対話環境という)ボーナスポイントがついたということでしょう。もちろんそうであったからといって、このようなプロジェクトを考案しそれを実施したことの功績は、少しも貶められるわけではありませんが。
そのほかにも、まだ暖かい9月の日曜の午後、週日の喧騒のない静かなカフェや公園などで(プライベートな空間でなく公共スペースを対話の場所に使うことが推奨されました)、お茶やビールを飲みながら話し合う、といった現実世界だからこそ味わえるほかのアメニティー要素も、なごやかに話し合うための雰囲気づくりに貢献したことでしょう。
ちなみに、対面型にすぐれた点があるとはいえ、ネット上のコミュニケーションにも優れた特性があり、対面型の対話に対し、ネットを通じたバーチャルな対話が一概に劣っているといっているというのではもちろんないでしょう。ただし、例えば、文字や絵文字のみでのコミュニケーションでは、対面型の時のような声のトーンや顔の表情などが相手にわからないため、微妙なニュアンスがうまく伝わりにくく、誤解や不信感をうみやすくなるのも事実です。ネット上での対話を円滑に行うためには、対面型とは異なる配慮や気遣いが必要ということになるでしょう。
どれだけ広く人々を動員したのか
参加者からは好意的なフィードバックが圧倒的であったとはいえ、このプロジェクトについて、疑問の声やクリティカルな評価もあります。ここからは、これらの指摘を取り上げながら、このプロジェクトの傾向、限界について考えてみます。
まず、もともとほかの意見にオープンで進歩的な考えの人たちが、この対話プロジェクトに参加し議論しているのにすぎないのでは、という批判的な指摘があります(Schöpfer, 2018)。そうであるとすれば、いくら繰り返しこのようなプロジェクトをしても、本来の目的である、本当に対立する人たちとの間の対話を促進するものにならないのでは、という疑問です。
たしかに、初回の対話では意見がおおむね一致する人たちが多く、多くの対立意見をもつ人どうしの対話はむしろ少数派でした。しかし、2回目はほかの複数のメディア企業が参加したことで、一回目よりも多様な意見をもつ人たちが参加しました。『ディ・ツァイト』のファイグレPhilip Faigleは、二回目の対話プロジェクトでの一つの質問、ドイツでイスラム教徒と非イスラム教徒はうまく共存できるか、という問いに、15%はできない、と回答した人がいたことに言及し、対立する意見の人たちもまた参加していると主張しています(Schöpfer, 2018)。
ちなみに、2018年のプロジェクトで、参加希望者として登録した全2万8000人の内訳をみると、男性が圧倒的に多く68.3%、女性は29.9%、平均年齢は41.6歳でした(これは、ドイツ人の平均年齢とほぼ同じです)。年齢は18から97歳と非常に幅広く、地域的にはドイツ全国を網羅しています。ただし、西側に比べると東ドイツからの申し込みはやや少なめです。人口でみると東ドイツの州は全体の22%を占めていますが、今回東ドイツから参加した人たちは全体の16%でした。
職業をみると、経営者は1464人、研究者1308人、教師1307人、看護師293人、聖職者49人、タクシー運転手14人、消防士9人、大学生は3409人です。
全般に、意見の差異は地域よりも、世代や性別によって差異の方が大きく、もっとも多かった組み合わせは、年配の男性と若い女性でした。

対話は誰とでもできるのか
対話プロジェクトの構想に異存はないが、対話をするには人も事象も対象を限定すべきだという意見もあります。
二回目の対話プロジェクトが開催されるにあたって、後援者である連邦大統領を迎え、ベルリンで式典(イベント)「Plattform «My country Talks»」がとり行われたのですが、そこで執筆家でデジタル分野に精通するサーシャ・ロボSascha Loboが提示した意見です。
ロボは、これまでソーシャルメディアや現実空間で多くの極右勢力支持者たちと会い、対話を重ねてきました。その中には、ドイツの国防軍が(ヨーロッパを目指し海をわたる、筆者註)難民の船を砲撃し、何千人か死亡者がでれば、もう誰も来なくなるだろう、と書いてきた人もいたと言います。ロボはその時点で、その人との対話を断ち切ることはなかったが、その人とはその後建設的な議論にはならなかったとし、このような「ナチ」(この人や、ほかの同様な意見の人たちに対してロボが使う呼称)は、ほかの人たちと普通に話し合うということはできない人たちであり、話すに値しない人だといいます(Zeit Online)。
つまり対話は、なんでもだれとでも話すという無条件のものであるべきではなく、絶対に越してはいけない一線(レッドライン)があるべきで、それが自由民主主義的な対話にあって必要不可欠とします(Zeit Online)。
昨年末に発行されたドイツの極右政党とメディアに関する研究によると、ドイツの極右政党「ドイツのためのオルタナティブ(略名AfD)」は、メディアを中立的な情報を提供するものとはみておらず、自分たちの意向にあう報道か、それとも(自分たちにとって)「嘘」の報道か、つまりメディアを友か敵かという見方でしか捉えていないとされます(Gäbler, 2018)。このように自分に合う話か合わない話かだけで、情報や人が話す内容をより分ける姿勢の人とは、たしかに対話が実際に可能なのか疑問がわきます。
相手の意見を聞こうという態度がなければ、基本的にそれは対話ではありません。ほかの人の話をまったく聞かず自分の主張だけを繰り返し、ほかの人の意見を罵倒するだけの対話はたしかに無為なものかもしれません。
他方、どんな相手とどんな風に話し合うかは、その状況や相手の関係によって、微妙に変化します。換言すれば、同じ人でも、誰とどう対話するかによって、対話できる余地が大きい場合もあれば、非常に小さい場合もある、ということなのではないかと思います。そう考えると、ある人との対話が可能か不可能かの線引きは非常に難しく、どんな人とでも状況によっては対話できる余地、可能性があるようにも思えます。



