- 2019年05月20日 09:15
乙武洋匡の"我の強さ"が説得力をもつ理由
2/2■世界共通の「普通」なんてどこにもない
例えば、僕は極度の近眼なので毎日コンタクトレンズをつけて生活しています。だから、もしメガネもコンタクトもない時代に生まれていたら間違いなく「障がい者」だったでしょう。狩りにでかけたらちっとも役に立ちません。
もっと大げさなことを言うと、僕は日本語しか喋ることができないので、日本語圏の外に出ると、僕の言語能力も、ある意味では”障がいがある”状態と言えるかもしれません。
突き詰めていくと「普通」なんてどこにもない。切り取りようによっては自分だって「健常者」ではないかもしれない。いつだってそんな疑いを持ちながら過ごすことは、いざ新しいルールを作ろうとした時に役立つような気がします。
ひとたび、「障がい」というものを離れてみても、僕たちが「社会」と呼んでるものは、所詮カギカッコつきの限定された「社会」だなと気づきます。個人個人に見えている「社会」は違います。全人類にとって共通の、すべてを含んだ一般社会なんてありません。あなたにとっての「社会」と他人にとっての「社会」は違うから。
死ぬような思いまでして無理に溶け込まなくてはならない「社会」なんてどこにもない。生きていく社会を自分で選んで、自分で定義する。それもまた、とても重要だと思うんです。
■障がい者を苦しめる「適合」と「分断」の二元論
最近、写真家の齋藤陽道(はるみち)さんの『異なり記念日』という本を読みました。
齋藤さんは、耳が聞こえる両親から生まれたろうあ者です。両親の言語に合わせて「日本語」を第一言語として教わりました。齋藤さんのパートナーである麻奈美さんは、耳の聞こえない両親から生まれたろうあ者です。手話を第一言語として育ちました。
2人の間に生まれた樹(いつき)さんは、耳が聞こえる健常者です。3人が3人とも、ある意味で違う「社会」を生きている。子どもと親が「異なるんだ」と気づいた記念日が「異なり記念日」というわけです。
ろうあ者の教育をめぐっては、日本に限らず読唇術などを教えて健常者の言語を使いこなせるようになるべきという考え方が、かつては根強かったのです。しかし、耳が聞こえない人は無理やり口述日本語を覚えるよりも、手話コミュニケーションのなかでのびのびと感性を磨いたほうが豊かな表現力をもてるという考え方も、今では広く浸透してきているんだそうです(もちろんこんなにシンプルな歴史ではありません)。
齋藤さんは両親が健常者なので、口述コミュニケーションができるように育てられたそうですが、6歳から16歳の記憶がほとんどないそうです。手話ならすぐ覚えられることも、日本語の音や口のかたちで覚えようとすると何倍もの時間がかかってしまう。自分は聞こえないのに、音声で自己表現をせざるを得なかったことは、かなりストレスのかかることだったのかもしれません。
言い方が少し乱暴ですが、手話を使える人たち同士の「社会」で生きていく限りにおいては、日本語に適応しなくても手話ができれば何の問題もないという考え方もありますよね。
健常者たちが見ている「社会」に適合するために障がい者が努力すべきなのか。あるいは、健常者の「社会」と、障がい者の「社会」を分断させたまま生きていくべきなのか。
僕は、どちらも違うと思います。こうした二元論に陥らないことこそが大事なんです。障がいを障がいたらしめているのは社会でしかない。そのことを認識し、誰もが生きやすい「一般社会」を作っていかなければならないと思います。
■本の主役は実は乙さんではない
ここで『五体不満足』を思い返してみると、実はものすごく努力をしていたのは、乙さんの周りにいた人たちだということに気づきます。『五体不満足』って実は、乙さんが主役に見えてそうではない。彼の周りにいて「オトちゃんルール」を作った人たちであり、そうした新ルールを喜んで受け入れた人たちこそが、この本の主役なんです。次々と自発的にできあがる新ルールは数えればキリがありません。
(野球・サッカー・ドッジボールなどに)ボクも参加できるような、「特別ルール」があればよいのだ。それは、「オトちゃんルール」と呼ばれた。クラスの友達が考え出してくれたのだ。
100mを走り切るのに、ボクは2分以上かかってしまう。普通なら、遅い子でも20秒程度だ。そこで、先生が「じゃあ、ヒロだけ途中からのスタートにしようか。半分の50mでどうだ」との提案。
「今年のゲームは、○×ゲームをすることにしました。○だと思う人は首を縦に振り、×だと思う人は首を横に振ります。(中略)先生。今年は乙武くんがいるでしょ。乙武くんは、こうしないと参加できないでしょ」
あたりまえのことのように言う子どもに、先生方は顔を見合わせ、しばし返す言葉がなかったという。
これらはほんの一部の抜粋でしかありません。乙さんの周りにいた人たちはみんな、工夫をこらして、彼と生きている。年齢が若いからというのもあるかもしれないけど、すごく柔軟にルールを変えていきますよね。大人もこれぐらいカジュアルに変わっていけばいいんだと思います。
■魅力的なのは、周囲にルールを変えさせる力
それにしても、乙さんに対する周囲の人たちの「神対応」、ちょっとやり過ぎなんじゃないかと思うくらいです。小学校や中学校で足が速いやつなんて、そこが人生のピークなんだから、ちゃんと目立たせてやって欲しいですよね(笑)。
こうして、この本の主役は「彼の周りの人たちだった」と気づいて読み返してみると、乙さんの個性というのはますます、手足がないことというよりも、周りにルールをどんどん変えさせる「我の強さ」なんだと感じますよね。僕たちはいつも、肩書きや見た目など表層的な特徴でレッテルを貼りがちですが、それに惑わされすぎない方が、居心地のいい付き合い方ができると思います。僕はそんな我の強い乙さんが面白くて大好きです。
いずれにしても、社会の中で自分よりも不便な思いをしている人、不利益をこうむっている人がいたら、乙さんの周りの人たちのチャレンジ精神を思い出してみてください。当事者の勇気やアクションはもちろん大事。でも、周りの人の優しさやアクションの方が、もっと説得力を持つときもあるんです。
■「オトちゃんルール」は、理想の社会そのもの
例えば、社会的に弱い立場になりやすい女性たち。男社会で差別されている女性がいたら、本人が主観的な声をあげるより、周りがサポートしてあげる方が状況を良くするかもしれません。
「体力がなくて困っている」という女性がいたら、同僚が、人事部にかけあって新しい時短勤務制度をつくってみるのはどうでしょうか。あるいは、バレンタインの義理チョコにウンザリしている女性社員がいたら、男性社員が率先して「義理チョコ廃止、賛成!」と宣言してみてはどうでしょうか。
立場の弱い人、不利益を感じている人が、みずから声をあげるのはとても難しい。だからこそ、周りにいる人たちがいつも、重要な鍵を握るのです。

手塚 マキ『裏・読書』(ハフポストブックス/ディスカヴァー・トゥエンティワン)
作られたルールに従うだけでなく、時にはルールを生み出す側になると、見える景色が変わります。乙さんの同級生たちは、幼い頃からルールを疑い、ルールを生み出し、ルールを楽しんできた人たちです。冒頭で、彼はルールを作るのがうまいと書きましたが、きっとそれは、彼がむしろ、周りの人たちから学んできた姿勢だったのかもしれません。
彼と共に過ごした周りの人たちは、自分が見ていたのは健常者にとっての限定された「社会」であることに気づき、そのうえで、乙さんを障がい者の「社会」へ分断するのではなく、いっしょに生きていける、乙ちゃん学級の「社会」をつくりあげていきました。それは、理想的な形だと僕は思うのです。
いつでも自分なりの「社会」を定義し、その中でルールを作り、助け合う。
少し前の彼は、ソムリエの僕にワインを教えてほしいと相談してきたので、僕は定期的にワイン会をひらいていました。でも1年ほどたつと、いつの間にか彼がテーマに合わせたワインを準備し、教える側に回るようになりました。相変わらず、仲間を先回りして楽しませてくれるリーダーです。
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手塚 マキ(てづか・まき)ホストクラブ「Smappa! Group」会長
1977年生まれ。中央大学理工学部中退後、歌舞伎町のナンバーワンホストを経て独立。ホストのボランティア団体「夜鳥の界」を立ち上げ、NPO法人「グリーンバード」理事。2017年「歌舞伎町ブックセンター」をオープン。近著に『自分をあきらめるにはまだ早い[改訂版]』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『裏・読書』(ハフポストブックス/ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。
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(ホストクラブ「Smappa! Group」会長 手塚 マキ 写真=時事通信フォト)
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