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名曲『傘がない』を英訳するとどうなる?ロバート キャンベル氏が翻訳して気付いた 井上陽水の深〜い詞世界

『傘がない』『少年時代』などの作品で知られる、独特な詞世界と唯一無二の歌声を持つシンガーソングライター・井上陽水。日本人なら誰もが聞いたことのある同氏の作品を英訳した『井上陽水英訳詞集』が講談社より発売された。

ひと筋縄ではいきそうにない数々の歌詞を翻訳したのは、さまざまな書籍やメディア出演で知られる日本文学研究者のロバート キャンベル氏。今回、「翻訳」という作業の奥深さ、そして井上陽水の詞世界について、テレビでもお馴染みのにこやかな表情で語ってくれた。

—— 井上陽水さんの歌は以前からお好きだったんでしょうか

陽水さんの曲は、21歳の頃、はじめて東京に留学したときに聴きました。その当時はYMOのようなニューウェイヴやテクノなど、踊れるような曲が好きだったんですが、陽水さんはすごく声が面白くて、楽曲も洗練されていていいなと思ったんですよ。

そのあと、27歳の時に九州大学で研究生となったときに、陽水さんがすごくヒットを飛ばしていて。福岡には11年ほどいたんですが、陽水さんが福岡出身ということもあり、周りの人もよく聴いていた。それで私もよく聴くようになりました。

BLOGOS編集部

—— 翻訳に至った経緯について教えてください

今回の翻訳詞集には50曲分の歌詞が収録されていますが、これは私が病気をして、入院していた頃にまとめて翻訳したものです。入院してから退院の日まで50日あったので、誰に頼まれたわけでもないのですが、1日1曲ずつ翻訳していこうと思って始めたんです。

最初は「生きるか死ぬか」という重い状態だったこともあって、そのときの私の精神状態と共振するような曲、たとえば『青い闇の警告』のような暗いものが多かったんですけれど、徐々に回復していって、最後には『アジアの純真』や『東へ西へ』といった明るい曲にも取りかかることができました。

「一見すごく訳しやすそうなものが、訳し始めると難しかったりする」

—— 井上陽水さんの歌詞はかなり独特だと思うのですが、理解しづらかったり、翻訳しづらかったりということはありましたか

歌は、声や曲調も含めて理解するので、なんとなく言っていることは通じていると思うんです。意味が取れず、何を歌っているかわからないと意識する人は少ないのではないでしょうか。

ただ、陽水さんの多くの歌詞にははっきりとしたストーリーや起承転結があるわけではない。同時代でいうと、中島みゆきさんや松任谷由実さんの曲は絵に描けるようなストーリーがあるのですが、陽水さんの曲はそうではないんです。ただ、フルカラーなのか、セピアなのかといった色調は決められている。それでなんとなく歌の内容はわかるのではないかと思います。

訳をするにあたっても、陽水さんの日本語はとても正しく、壊れていない。でも、一見すごく訳しやすそうなものが、訳し始めると難しかったりする。意味としては間違っていないけれど、ムードを伝えようとするとちょっとした綻びみたいなものが出てくるんですね。そしてそれは陽水さんと直接話す機会に気付いたりする。

訳って面白くて、草稿を作って数日後に見返すと、正確さとは別に「英語として詞になっていない」と思うことがあるんです。今回も、原稿を見る度に原稿が修正の赤字で真っ赤になってしまって・・・(笑)。編集者の方は大変だったと思います。

—— 英訳しやすかった曲はありますか

やはり、はっきりとしたストーリーがあるものですね。『ゼンマイじかけのカブト虫』は、繰り返されるフレーズがなくて、時間軸も、内容も、独立した出来事が1番から4番まで歌われています。日本語としてもシンプルなので、英語にしても取りこぼしが少なかった。「カブトムシ 壊れた 一緒にたのしく遊んでいたのに」。これを訳すのはそれほど難しくはありませんよね。

ただ、最後の「君の目が こわれた」という一行は少し変わった言い回しです。目は「壊れる」ものではありません。だとしたら、そこには何か裏の意味があるのかもしれない。しかしながら、訳自体は「but your eyes just broke」とすることが可能です。

『ビルの最上階』も、描いている世界はシュールで、理解するには時間がかかるのですが、英語に置き換えづらいということはなかった。このような、陽水さんの曲の中でも、叙情的というよりも叙事的なものは、訳しやすかったです。

BLOGOS編集部

翻訳という作業は、元の言語をどのくらいの深度で理解して、意味、感情など、元の詩や文章を読んで感じることを再現するかが課題になってきます。加えて今回は歌詞の翻訳なので、リズムや速度、音の調子なども制御する必要がありました。

『傘がない』の英訳に思わぬダメ出し

—— 反対に、難しかったものはありますか

『傘がない』は陽水さんの代表曲のひとつでもありますが、翻訳するにあたって難しかった歌詞です。この歌詞は、「都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた」「テレビでは我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」といったように、時事に沿って書かれているように見えます。これは私もすごく好きな歌で、70年代の若者達が分別くさく語っている大人たちに背を向けて雨の中彼女に会いに行く、というシンプルな内容だと思っていたんです。

それで当初、タイトルを「I've got no umbrella」としました。この訳は日本語を英語にする時よくやるように、一人称をつけています。日本語は話者同士の関係性や文脈に依存するところが大きく、数や人称や時制を補わないと英語として固まらないことが多いからです。しかし、これを陽水さんに見せたところ、ダメ出しをされてしまって。

—— 一見、間違っていないようにも思いますが

そのダメ出しはまさに付け加えた「I」へのものだったんです。つまり、「『俺の傘』ではないんです、その理由を考えて下さい」と言われてしまった。でも歌詞には「君の町に行かなくちゃ」とあるし、おそらく男の主人公がいるはずだと当時の私は思っていて。なぜ陽水さんはそんなにこれを否定するのか悩んだんです。それで陽水さんに答えを聞くと、「傘というのは、生きているうちにある色んなことから自分たちを守ってくれるものだから、誰かのものであってはならないんです」とおっしゃった。それで、「No Umbrella」にしてくださいと。これは今回の50曲のなかで井上陽水さんが唯一、英訳した部分ですね(笑)。

BLOGOS編集部

私はそれを最初に見たとき「うーん」と思ったんです。普段、陽水さんの歌をそらんじているのに、翻訳することでそれまで思ってもみなかった意味に気付くものなんだと。そうすると、降っている「雨」も何か別の意味を持っているのではないかと思い始めてしまって。陽水さんもそこまでは教えてくれないと思いますし、曲は聴いた人が自由に解釈すればいいので、正解があるわけではないんですけどね。

そして、『傘がない』の最後の「それはいいことだろ」。実は、この部分は20代の頃から疑問に思っていたフレーズなんです。ここまで、冷たい雨に降られながら、彼女の所に向かっている男性が突然振り返るように、なぜためらいを見せるんですかと。不思議ですよね。私はこれは、「それはいいことだろ?いや、そうではない」という反語だと思っていて、陽水さん一流の斜に構えたラブソングならではだと考えていた。しかし、「傘」がみんなのものなら、なんでこんなことを言う必要があるんだろうと、また考え込んでしまった。

—— ひとつの発見が、また別の謎を呼ぶという感じですね

英訳自体は、そこまで入り込まなくてもできるんです。でも、翻訳するということはどこか創作者と同期するようなところがあって、言葉の背景まですべて知りたくなる。知ることによって、英語のテンポや言葉選びも変わってきますから。

BLOGOS編集部

翻訳作業を通じて新たな解釈を発見することも

—— そういった背景は、ご本人ならすべて説明できるものなのでしょうか

陽水さんの詞は、1人の人間がその時代の空気をギュッと凝縮した黒曜石のようなものです。でも、時が経ってから聞いたり読んだりしても胸に刺さる。それは歌詞に普遍的で、変わらない部分があるから。しかし、歌手としての経験を積み、時代も変わり、自分の体も変わっていくと、陽水さん本人も歌い方やイメージするものが変わっていくそうなんですね。

そこに私が「ここは教えてもらわないと英語になりにくい」と聞いたりすると、新たな解釈を発見することがあるんです。

—— 言われて気付くこともあるんですね

『とまどうペリカン』という曲は、ペリカンがライオンを追いかけている状況を歌ったものです。これもそれほど英語は難しくないのですが、翻訳に満足しなかったので、ライオンとペリカンの関係性を考え直してみることにしました。

私は若い頃にこの曲を聴いていて、たてがみを揺らして強そうに前を歩くライオンが男で、後をついていくペリカンが女だと理解していたのですが、いざ翻訳してみると、だんだんと逆のように思えてきた。もしそうなら、英語の調子も少し変わってくるんじゃないかと思って、陽水さんに聞いてみたんです。そしたら、「それに一票。実はぼくも最近歌っていて、ライオンはメスじゃないかと思うようになったんだ」とおっしゃって。

ライオンはすごく強くて素敵な女性なんだけど、百獣の王として振る舞うから、その後始末をしなければならないのはペリカン。そのペリカンがうかつに近づくと爪でやられてしまう(笑)。だから最後に「私はとまどうペリカン」となる。これももちろん正解があるわけではないのですが、陽水さんの詞の世界には字面から読み取れるものだけでなく、常にいくつかの扉が開いている。だから、世代を超えて、それぞれが「自分のストーリー」のように思えるんでしょうね。

—— お話を伺っていると、翻訳するという行為そのものの奥深さを感じてきます。陽水さんの作品には『少年時代』のように、いわゆる「日本の原風景」のようなものを想起させるものもありますが、こういった曲の翻訳はいかがでしたか

実は、ある文化のなかで育った人が原風景だと感じている「夏祭り」のようなものも、本当は人それぞれ想像しているものが違うんです。翻訳の面白いところは、「日本人はこうだよね」と思っていたことが実は違った、わかっていたつもりだったことも、人と違うわかりかたをしていたということに気付かせてくれる点です。

『少年時代』の「誰のあこがれに さまよう」というフレーズも、他の日本語に書き換えようとするととても難しいものです。しかし、それを一つの固定されたイメージとして他言語に持っていけば、別の言語では他のイメージがあるということに気付けますよね。自分たち固有の文化だと思っていたものが、すっと横にすべるように、情緒の取りこぼしや変化は若干あるかも知れませんが、翻訳できるということは、まさにその証明です。

翻訳するということは、すべての見ること、聞くこと、発話すること、味わうことなどについて、どうやって自分が身につけてきたのか再確認することにもなります。そうして、自分たちの文化の「外側」だと思っていた人たちとの距離について考えることが重要なんです。

—— なるほど、異なる言語を行き来することで見えてくるものがあると

今回の本の狙いのひとつとして、陽水さんの曲の対訳を読んだ後に、もういちど日本語に戻って読んでみてほしいと思っています。日本人はほぼみなさん公教育で英語を学んでいますから、私の訳詞は読めるはずです。


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ぜひ、対訳を読んで『少年時代』の「風あざみ」という日本語に存在しない言葉を、「キャンベルはこう訳すんだ」と思って楽しんで欲しいですね。英語で読んで日本語に舞い戻ってくることによって、曲を聴いたあの時に感じていた風景が変わって見える。私もそうでしたので、ぜひ皆さんにも体験して欲しいです。

そして何より、私が翻訳作業を通じて陽水さんとやりとりをする中で感じた、彼の経た年月と、それによる彼の言葉への感覚の移り変わりを、彼の素晴らしい詞とともに、少しでも多くの人と共有できればいいなと思っています。

プロフィール
ロバート キャンベル:
ニューヨーク市生まれ。近世・近代日本文学が専門で、とくに19世紀(江戸後期~明治前半)の漢文学と、漢文学と関連の深い文芸ジャンル、芸術、メディア、思想などに関心を寄せている。テレビでMCやニュース・コメンテーター等をつとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組企画・出演など、さまざまなメディアで活躍中。

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