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「人権=思いやり」という洪水のような「教育」

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 人権は道徳ではない、っていう、あの話だけどね。

fairs-fair.org

  特にこの記事のこの部分。

谷口さんは「人権は道徳ではありません」と話す。

「人権啓発として『みんなで仲良くしましょう』というキャンペーンをよく見ます。これは裏返すと『仲良くできないのは市民の責任だぞ』と、政府は責任転嫁をしていると言えます。政府には人権を守る責務があり、そのための大前提として差別を禁止し、差別を受けたら救済をして、差別を未然に防止することが必要です」

  マジでそう思うわ

 つうか、学校と自治体の人権教育が「人権=道徳=みんなで仲良くしましょう」で覆い尽くされていて本当にヤバいと思う。その量・規模たるや洪水のようだ。

 小学校の「人権学習参観」に行ってみればこれがベースでガンガン教えられているし、子どもたちに書かせる「人権標語」で最優秀に選ばれる作品はこのトーンばかりである。「広げよう えがお・やさしさ・おもいやり」「ありがとう 言われて 心に花がさく」。

広島市 - 過去の人権標語入賞作品(平成16年度~平成20年度)

鳥取市公式ウェブサイト:人権標語・ポスター入選作品の紹介(平成26年度)

 福岡市では町内会*1を動員して「人権=思いやり」という思想の標語が街中に貼られている。

 これは深刻な思想「教育」だと思う。日本では国家規模で予算をつぎ込み、草の根の人員を動員して、こうした「人権=思いやり」という「教育」がされている。

 だいたい政府の「人権教育・啓発に関する基本計画」の「人権教育」の最初の柱の、しかも「第一」が「心に響く道徳教育を推進」だからな。

http://www.moj.go.jp/content/000073061.pdf

「人権=思いやり」というパターナリズム(温情主義)

 人権教育を専攻としている阿久澤麻理子は次のように述べる。

 学校教育――とりわけ初等中等教育――の現場では「子どもに権利を教えると、自分勝手な主張が増えて、学校がまとまらなくなる」という意識はいまだ根強く、人権教育が既存の生徒と教師の関係を変えてしまうのではないかという危惧が存在する。それゆえ学校における人権教育は、表面的な憲法学習や「思いやり・やさしさ・いたわり」と行った道徳的価値の学習に読み替えられやすい。(阿久澤麻理子「人権教育再考 権利を学ぶこと・共同性を回復すること」/石埼学・遠藤比呂通『沈黙する人権』法律文化社所収p.35)

 ここで「表面的な憲法学習」が取り上げられている。これについてもついでに一言。

 これはぼく自身が受けてきた学校教育がそうだった。

 例えば社会科で習う「表現の自由」とは「自分とは関係のない」わいせつ表現を自由にするかどうかという話であり*2、それが自分が制服や指定バッグを強制されるかどうか、丸刈りを強制されるかどうかという問題と密接に関わっており、自分がその権利をもとに「声を上げる主体」であることを意識的に注意深く眠りこまされていた。

 「教育を受ける権利」「教育の機会均等」は、高学費によって政策的に踏みにじられている日本の現実には決して認識が届かず、「日本は義務教育や奨学金によってこの権利は保障されている。発展途上国はかわいそうね」のような認識へ導かれる。「学費を下げろ!」「給付制の奨学金を!」という運動には絶対に結びつけてはならないというわけだ。

 同じく「表現の自由」を根拠にして校則を変えたり、子どもの権利条約を根拠にして生徒にも意見表明をさせろと主張したりすることは、とんでもないことだとされるのである。

 憲法に定められた人権は、徹底して自分とは関係のない縁遠い権利であり、間違っても学校で行使してはならないことを繰り返し叩き込まれる。*3

 権利より価値を強調するのは、学校だけにとどまらない。日本では国や自治体が実施している人権啓発事業にも共通した傾向がある。しかし「思いやり」を強調する啓発は、「弱者に対する配慮」や「温かな人間関係」による問題解決を理想として描き出す一方で、「弱者とされる側」が権利を主張したり、その実現を求めて立ち上がるような「争議性」のある解決を回避し、そうした運動のシーンを啓発の中でとりあげようとはしない。「弱者への配慮」を強調する啓発は、ときにそれが「強者」と「弱者」の非対称的な力関係にあることに無自覚で、結局のところ、人権ではなくパターナリズムを教えることに陥っている。(阿久澤前掲p.35-36)

 このような「人権=思いやり」という議論は何を招いてしまうのか、阿久澤麻理子は次のようにのべる。

 さらに「思いやり・やさしさ・いたわり」型アプローチの問題は、人権に関わる問題を市民相互の私的な人間関係のなかで、「心のもちよう」によって解決するよう促す点にある。ここには「国家」と「市民」の関係は介在せず、人権を実現する公的機関の責務や、法・制度の確立による解決の道筋がみえない。このことは、国の役割が縮少し自己責任、自己救済の風潮が強化されるネオリベラルな社会に、きわめて高い親和性をもつ。人権問題を民主主義のメカニズムを通じ、諸制度を構築しながら解決しようとするよりも、私的世界に問題を差し戻すことになるからである。(阿久澤前掲p.36)

人権は思いやりによって生じるものではない

  「人権=思いやり」は二つの根拠らしいものを持っている。

 一つは、「憲法にも『すべて国民は、個人として尊重される』ってあるでしょう? 尊重するというのは、大切にするということだから、思いやりの気持ちをもって大切にするってことでいいじゃないの?」という考えだ。つまり「人としての尊厳の尊重=思いやり」という見方だ。

 もう一つは、「人権って、お互いに主張しあったら衝突するから権利調整するんでしょ? なら『思いやり』って言ってもいいだろ?」という考え方。

 共通しているのは、人権が市民間(私人間)の配慮によって初めて生じるかのように見えることだ。個人の尊厳が、他人との関係(「義務を果たしたからいただけるもの」だとか「他人が配慮してくれるからスペースが生じるもの」)ではなく個人の中に最初から無条件にそなわっているものだという原則が消えてしまう。だから、個人がその権利の主体であり、その実現のために争えるということは抑圧される。前者の主張は特にそう見える。

 後者について言えば、極言すれば「思いやり」など1グラムもなくても人権は主張してよいし、主張すべきものである。紛争して勝ち取って何らさしつかえないものである。ある人の人権の主張が誰かの人権を脅かすというのであれば、その「誰か」は人権が脅かされていることを主張し、争い、決着をつけるべきものである。*4

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