■公明党が作られた本当の理由
ではなぜ、創価学会は政党を組織して、政界に進出したのだろうか。
戸田が主張したことは、「広宣(こうせん)流布(るふ)」の達成であり、「国立(こくりつ)戒壇(かいだん)」の建立だった。
広宣流布とは、仏教の教えを広めることを意味するが、その場合の仏教とは日蓮正宗の信仰のことであり、創価学会の教えを広めることだった。
国立戒壇の建立は、実は、戦前に盛んだった日蓮主義の運動を推進した国柱会(こくちゅうかい)の田中(たなか)智学(ちがく)が主張していたものである。田中は、国立戒壇建立による「国土成仏を通じて、世界統一が実現される」と述べていた。
戸田は、田中から国立戒壇ということばを借用した。戸田の師である初代会長の牧口は国立戒壇ということばを使っていなかった。
日蓮の教えのなかには「本門之戒壇」というものがあり、国立戒壇はそれを現代的な言い方で表現したものだった。戒壇とは、一般には、正式に僧侶として認めるために戒を授けるところを意味する。日本でもっとも代表的な戒壇は、中国から鑑真(がんじん)が日本にやってきたときに建てられた東大寺(とうだいじ)のものだった。鑑真は戒を授ける資格を持っており、それ以前の日本にはそうした僧侶がいなかった。
ところが、国立戒壇の方は、僧侶に戒を授けるためのものではなかった。戸田がイメージしていた国立戒壇は、国会での議決を通して建立されるもので、その建立は、日蓮正宗に対する信仰が国によって認められた証(あか)しになるというものだった。
■政界進出の目的は単に結束力を強めたいだけ
本門之戒壇の性格については、昔からさまざまな議論があり、それを反映して、国立戒壇が何を意味するかはかなり曖昧だった。創価学会以外の人間からは、日蓮正宗を日本国家公認の国教にする試みではないかとも言われたが、戸田はそれを否定した。
国立戒壇の中身が曖昧なのは、政界への進出を正当化するスローガンだったからで、戸田は、そこには別の目的があるともしていた。戸田は、参議院選挙にはじめて候補者を立てる前におこなわれた幹部会で、選挙になると会員たちの目の色が変わってくるので、支部や学会の信心を引き締めるために使えると述べていた。
大きく発展した創価学会の組織の引き締めのために活用するというのが、政界へ進出した本当の目的だったのである。
■学会員の強い人間関係は「縦線」のおかげ
それと関連して重要なのは、政界に進出するのと並行して、組織のあり方に大きな変更が加えられたことである。
ほかの新宗教では一般的なことだが、創価学会も政界へ進出する以前は「縦線」によって組織されていた。
新宗教が信者を増やしていく場合、ある人間が布教して新しい人間を入信させていくのだが、新しい入信者は、その人間を入信させた信者が属している支部に加入する。これが縦線である。
そのメリットは、信仰のつながりの背後に強固な人間関係があるということにある。
ただ、入信させた人間と新しい入信者は、違う地域に住んでいるかもしれず、支部は、地域を基盤に成り立つものではなくなる。それでは、地域での活動が十分には展開できない。
それでも、信仰活動の実践にはさして支障をきたすことはない。集まるところさえあればいいからである。
■地域を基盤としたつながりで、信仰が強固に

ところが、選挙の活動となると、地域でまとまって行動しなければ、票を獲得することができない。
そこで創価学会では、信仰のつながりによる縦線から、地域を基盤とした「横線」に組織を改めた。これによって、創価学会の組織は基本的に地域を単位とするようになったのである。
これが可能になったのは、同じ地域に住んでいる創価学会の会員の数がかなり多かったからで、それによって、創価学会の組織は地域共同体としての性格を併せ持つようになった。日頃の付き合いは会員同士に限定され、関係はより密接なものになった。これは、政界に進出したことの副産物で、創価学会の組織に、ほかの新宗教には見られない強さを与えたのである。
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島田裕巳(しまだ・ひろみ)宗教学者、作家
1953年、東京生まれ。1976年、東京大学文学部宗教学科卒業。1984年、同大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を経て、現在は東京女子大学および東京通信大学で非常勤講師を勤める。主な著書に、『創価学会』(新潮新書)など。
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(宗教学者 島田 裕巳 写真=時事通信フォト)