- 2019年05月05日 07:00
市民の一人ひとりが望月衣塑子だ(阿部岳)
直径約2・4ミリの鉛の粒が、『朝日新聞』阪神支局(兵庫県西宮市)に展示されている。1987年の襲撃事件で、散弾銃から発射された。一つひとつは小さなその粒が記者1人を殺害し、言論を永久に封じた。
今、首相官邸が発する言葉の一つひとつがジャーナリズムを撃ち、衰弱させている。
2015年、フランスの風刺週刊紙『シャルリエブド』が武装テロリストに襲撃され、編集長ら12人が犠牲になった。世界中のジャーナリストと市民が「私はシャルリ」と連帯の言葉を語った。
そして今。私は望月衣塑子である。ジャーナリスト、市民の一人ひとりが望月衣塑子ではないか。
菅義偉官房長官は、記者会見で質問する『東京新聞』の望月衣塑子記者に対し、「あなたに答える必要はありません」と言った。国会では「取材じゃないと思いますよ。決め打ちですよ」と言った。誰になら答えるのか、どれを取材と認めるのか、権力が一方的に選別するという宣言である。
他方、首相官邸から内閣記者会への要請文は「問題意識の共有」を求めた。「メディア、政府の双方にとって有意義な形での」会見と続く文脈にも、「あなたがたも望月記者には手を焼いているでしょう」と、記者クラブを抱き込む意図がのぞく。
権力による同業者の排除を黙認し、自らは排除されないようにおもねるとしたら、権力を監視するジャーナリズムは死ぬ。職業人、プロフェッショナルならば闘う以外の選択肢はない。仕事の流儀、価値観の違いがあったとしても二の次である。存在意義と存立基盤そのものが揺さぶられている。
自由な取材に基づく自由な表現は、市民のために存在する。権力をめぐる多様な情報がなければ、市民が判断材料を選び取ることもできない。ジャーナリストの目、耳、口がふさがれる時、市民が見る、聞く、話す力が弱められる。
だから、官邸の執拗な抗議に対し『東京新聞』が「記者は読者、国民の代表として質問に臨んでいる」と述べたのはごく当たり前のことだった。これに対し、官邸は「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員」「記者は国民の代表とする根拠を示せ」と迫った。
強気の背景には、市民の既存メディアへの反発が強まっていることがある。SNSを中心に「マスゴミに私の代表を頼んだ覚えはない」という声が存在感を増し、逆にメディアは弱気になっている。
でも、臆することはない。極論すればたとえ一人だけのためでも、ジャーナリストは市民に代わって職責を果たす。国会議員は、市民に代わって議論し、国の方針を決める仕事。どちらも民主主義社会の主役である市民の代行者にすぎない。
違うのは、国会議員が一部ではなくこの国に住む市民全体を代行している点だ。だから税金を使うことができ、その決定は全体を縛れる。すべての質問、意見に応答するのは義務である。事実と違うなら、そう説明すれば足りる。
言うまでもなかった根本のところから、民主主義が掘り崩されようとしている。この危機にあって、「私たち」という曖昧な主語は力が足りない。一人ひとりの「私」が自らの足で立って言葉を発し、その上でつながっていく覚悟がなければ、対抗できないように思う。(一部敬称略)
(あべ たかし・『沖縄タイムス』記者。2019年3月29日号)



