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憲法の日に寄せて

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ここまでの加藤の行論には反論の余地がないと思う。

憲法九条二項は憲法一条と「バーター」で制定されたという加藤の論には説得力がある。

とくに私が興味を持ったのは、この「極端な戦争放棄」に当時の政治家や憲法学者たちが熱狂したという点である(その多くは後になって「九条二項には個別的自衛権を放棄したものではない」と掌を返したように解釈を覆したが)。

加藤はこれを日本人が病んだ「道義心の空白」(193頁)によって説明する。

敗戦によって日本がそれまで道義的価値の源泉として見上げてきた(少なくとも制度的にはそう強制されてきた)天皇がその地位を失った。

天皇制は戦争責任を免れるかたちで存命することになった。
それを喜んだ日本人もたくさんいただろう。けれども、天皇がもはや国家の道義的な中心ではなくなったという事実に日本人は深い空虚感を感じたはずである。

いったいこれから先、日本人は何を道義とし、モラルとして生きていったらよいのか?

その「藁をもつかむ」状態にあった日本人に提示されたのが、戦力を持たず、交戦権を否定し、全面的な戦争放棄を実行して世界に類のない平和国家をめざすのだという憲法九条の「物語」である。

「世界に類のない」というところが肝心なのである。

世界に冠絶する大日本帝国が瓦解した後に、それでも日本人はなんらかのかたちで「世界に類をみない国」でありたいと切望した。

加藤はこのときに日本人を巻き込んだ熱狂についてこう書いている。

「自分たちの空っぽの道義の『空白』には、いま、そのようなものこそが、必要なのだ、自分たちはそれをこそ求めていたのだ、と考え、その条項を全面的な賛同の気持ちで受けいれることにした。このとき起こったことが、そうした側面をもっていたとしたら、それは、戦争放棄の『光輝』によって行う、天皇の民主化の『空白』の"埋め合わせ"(代償行為)だったのだろうと私は思うのです。」(195頁)

ここまでの論を見ただけで、なぜ先帝が「鎮魂と慰藉」という「象徴的行為」を「象徴天皇」の本務であるとして、あれほど強調されてきたのか、その理路が逆方向からわかってくる。

天皇陛下の象徴的行為による国民の道義性の「底上げ」の努力は、改憲の運動が進み、憲法九条の「道義性」が減殺されてゆくプロセスとほぼ並行している。

かつては「憲法一条の没道犠牲」を「憲法九条の道義性」が補償していた。 いまは「憲法九条の道義性の空洞化」を「憲法一条の道義性の充実」が補填しているのである。 日本国が国際社会に示し得る「道義性の総量」は昔も今も変わらない。

変わったのは「何がわが国の国民的道義性を担っているのか」である。

という話を神戸新聞にしたのだけれど、変な話過ぎたので、記事にはならなかったので、ここに採録するのである。

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