
人気絶頂のなかでの活動休止・解散を経て蘇った伝説のロックバンド 「ザ・イエロー・モンキー」。現代の日本音楽シーンにおいても異彩の存在感を放つ彼らがたどりついた、仕音事楽・人生との向き合い方とは……。
戦略的に描き続けた、バンドの進むべき道

CDからストリーミングが主流になるなど、そのあり方も大きく変化した「平成」の音楽シーン。その激動のなかで、他にはない存在感でリスナーを惹きつけているのが、吉井和哉(ボーカル&ギター、以下吉井)、廣瀬洋一(ベース、以下ヒーセ)、兄弟である菊地英昭(ギター、以下エマ)、菊地英二(ドラム、以下アニー)からなる「ザ・イエロー・モンキー」だ。グラムロックの持つミステリアスでスリリングなサウンドをルーツに、1989年に結成。「楽園」や「球根」など、現在も歌い継がれる曲を数多く発表し、以降、登場するミュージシャンたちに多大な影響を与えた。
その後、約15年の空白期間を経て2016年に〝再集結〞してからも、東京ドーム2デイズを満杯にし、発表した楽曲もチャート上位を席巻。時代を超えて刺激を与え続ける彼らのスタイルは、幅広い人々に「最前線で走り続ける」ことのカッコよさを伝える。
メンバー全員が身長180㎝程度、日本人離れしたメイクやファッションなど、そのビジュアルを「戦略」のひとつとしてシーンに登場した彼ら。
「演奏は努力をしたら自然と身につくものだし、それより見た目のよさが息の長いバンドになる要因だと思ったので(笑)。あと、日本人っぽいルックスで、このバンド名を使うのは違うかな? とか。当初からそんな企画を考えていましたね」(吉井)
[画像をブログで見る]デビュー時は、エッジの効いた音楽やビジュアルから"異端"扱いされることもあったが、「吉井の作る楽曲を聴いて、これはロックとかジャンルに関係なく、普遍的にいいと思える表現力があると思った」(アニー)との言葉が示すように、しだいにバンドの音楽性は世間に認められ、ヒット曲が続々と誕生する。そんななか、バンドの大きな転機となったのが’96年に発表された楽曲「JAM」だ。
時代や世相によって価値観が移り変わっても、決して変わることのない「普遍の愛」を、流麗なメロディにのせて綴ったバラード。’16年に初出演した紅白歌合戦でもこの楽曲を披露するなど、バンドの代表曲のひとつとして幅広い人々に親しまれているが、実は「発売するにあたってレーベルと揉めた」と吉井は振り返る。
「でも、それを逆手にとって、宣伝文句にして広めていけばいいのでは? とPR担当のスタッフの方に言われたんです。また、当時人気だったバンドの略称とタイトルが被っていたので、これは『おいしいな』とか(笑)。時代の流れについでに便乗するって大事だなと思いましたね」
自信あるものを表現し、それに時代が追いつく
「JAM」のヒット以降、バンドを取り囲む規模はさらに拡大。’98年から’99年にかけて行った全国ツアーでは、100億円近い経済効果を生みだしたともいわれている。その結果、ヒット曲を出し続けなくてはいけないというプレッシャーに襲われ、’01年に活動休止。’04年には解散の道を選ぶ。だが、解散後も「常に心のなかにバンドが存在していた」とアニーは言う。
「だからドラムはずっと叩き続けていました。それまで120%の力で演奏してきたものを多くの方々が好きでいてくれたので、再開した際にそれ以上のものを出さないと、みんなの心に生きているイエローモンキーは表現できないと思ったから」
やがてリスナーや周囲からの熱い声にも応え、バンドは’16年に再集結を発表するが、15年というブランクは大きな壁に。「ミュージシャンなんてやめちまえ!」と年下のスタッフから怒鳴られることもあったが、それを貴重なアドバイスと受け止め、徐々に感覚を取り戻した。そこに空白期間を通じて培った技術や感覚が加わり、4人のなかで音楽、そしてバンドに対する意識に変化が起こったという。