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いとうせいこうが挑んだ「お笑い理論」の分析整理『今夜、笑いの数を数えましょう』

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ケラリーノ・サンドロヴィッチとの対談では、バスター・キートンやマルクス兄弟など、戦前アメリカの喜劇映画への言及もあるが、他、倉本美津留、枡野浩一、バカリズム、きたろう、という面々とはそれぞれの活動歴と観賞歴の中で笑いを語っている。そして、宮沢章夫とは、いとうが活動を共にした80年代のユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」によって醸された笑いのサンプリングが頻出し、よりシンクロ度が強まっていくように感じた。本書における太い葉脈が浮き上がるかのようにだ。

現在50代前半である自分は、幸い学生時代に「ラジカル」を同世代的に体験。ラフォーレ原宿で行われた「ラジカル」の公演を観劇している。86~87年あたりだ。

大竹まことが他の面々がアテレコする意味不明な人形にキレたり、ある会社の「受付」が台から顔の上半分だけ出して喋る対応で口元が見えない違和感が笑いに転じたり、加藤賢崇が短い台詞を口にするだけで卑怯なほど可笑しかったり、シュールとナンセンスの境界に笑い転げたことを覚えている。(もしかしたら幾つかの公演が混同しているかもしれない)

また、公演のエンディングでいとうせいこうがラップで「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」と連呼しながらメンバー紹介したシーンがかなり鮮やかに記憶に焼きついている。いとうは紺系のニット帽に白いTシャツに紺ベースでチェック柄のペダルプッシャーっぽいパンツルックで、ヒップホップ界隈で芽吹いているのだろうと思わせる小刻みなステップを踏んでいた。

それらもすべて含めて、これが笑いのライブシーンの突端なんだなと高揚した。笑い疲れて劇場ロビー出ると、ワハハ本舗の(当時はその方面の下北沢界隈のセンターヒロインでもあった)久本雅美の姿が目に飛び込み、周りが久本をスルーしていく中で声を掛けて小さなサインを書いてもらった。久本のトレードマークだったナスの絵が添えられていて、高揚にひとナス分のオマケがついた。

少し横道にそれたが、当時のいとうせいこうがピン芸人として放ったネタの中で、妙に記憶に残っているものがある。これはおそらく80年代後半、AMラジオで放送された「スネークマンショー」や「ラジカル」の流れをくむ類の番組の中で耳にしたものだ。

シーン:満員電車に母と子が乗っている

SE 電車の発車アナウンス~走行音

子「ママー、ママー」
母「静かにしてなさい」
子「ママー!ママー!」
母「静かにしてなさい、よしおちゃん」
子「ママー!!」
母「静かにしてなさい」
子「こばやしたきじ(小林多喜二)」
母「(小声で)シッ、そういうこと言わないの」
子「おおすぎさかえ(大杉栄)」
周りの乗客「(ざわつき)」
母「ちょっと、どうしてそういうこと言うの、(周りに)すみません・・・ホント、ねえ・・・。(子どもに)いいから黙ってなさい」
子「こうとくしゅうすい(幸徳秋水)」
母「だから、どうしてそういうこと言うの!」
子「(人名連呼)」
周りの乗客「(ざわつき)」
母「よしおちゃん!」
なおこれは記憶の再現の為、正確な採録ではない。いとうせいこうが母子二役を演じ、満員電車で聞き分けのない子どもが唐突に社会運動家たちの名を口にして、母が困惑するというラジオコントだった。ここで扱われた笑いに何らかの分類を施せば「満員電車で聞こえてきたら気まずいこと」「子どもが言わないこと」という設問への解になるのか。また、当時ツービートの漫才にジャンケンでのボケで「フレミングの法則」を出すギャグがあったが、そこに類する「教科書ワード」という分け方もできるだろう。

それにしても、ここで用いられた人名には倫理的な重みがヘビーにあって、自分はこのコントを聴いてクスっとしつつも、こういうのってどれぐらいありなのかなあ? と笑いだけで飲み込みきれなかった。それゆえ長く記憶に貼り付いていたものだ。今から思えばだが、いとうはこのときメディアにおける「自粛ワード」のリミットを試していたのかもしれない。

と、つい外野からも自身の引き出しを開けてしまいたくなるような、そんな刺激に満ちていたのが「今夜、笑いの数を数えましょう」だった。中でもいとうせいこうと宮沢章夫の間でやりとりされた「笑い」への同時代感や空気感が、自分自身の笑いの記憶の扉をより強くノックしてきて、笑い(への深い共振)は世代論と切り離せない、という、とても当たり前のことを突きつけてきた。笑いを語るということは、語り手と受け手の「世代」「経験値」で共感度が左右される、という当たり前のこと、その再認識をだ。

本書では、宮沢章夫がそこに対して明らかな意を差し向けていた。宮沢は小林信彦の名著「日本の喜劇人」(――戦中・戦後~高度成長期、日本の笑いの変遷を自身の広範な観賞体験をベースに包括した圧巻のクロニクル。1972年刊行。1978年増補「定本」版刊行)に言及し、この一冊によって自身が笑いの仕事へ惹きこまれたことを明かし、「ある一定の笑いの好きな者に決定的な影響を与えた」影響力を称えつつ、これが小林信彦による日本の笑いに対する「青春と挫折の記録」であり「小説」であり「小林史観」であり「功罪もある」という見方を示した。

そして「小林さんが書いていることが本当に全部事実かというと、ちょっとわからない。たしかに事実をもとに書いているんだけど、そこに小林さんの文体の見事さがあって、特別な物語として読んでいたんじゃないかな。」と総括しながら、「小林信彦さんが触れなかった笑いっていうのがある。その中の一つで非常に代表的なのはやっぱりタモリさんだと思う。これは道化とそうじゃないもの。これは時代だと思うんだよね。(略)八〇年代になって、もう一つ別の笑いが出てきた。」と、世代論を提示する。

ちなみに「日本の喜劇人」では定本版でタモリにも触れている。だがそれが70年代後半の「ぎらぎらした」タモリまでであり、後年、樋口毅宏が「タモリ論」(2013年 新潮新書)で指摘するような絶望や諦念を内に秘めたタモリの笑いには触れていない。なお、前述の宮沢の発言を受けていとうせいこうは「まず笑われようって感じの笑いじゃないってことですよね。」と、芯を捉えた補足を加えている。

宮沢章夫はそうして自身のニン、自身が語るべき笑いは、小林信彦以後なのだと線を引く。語り手の立ち位置として、より真っ当に対峙することが出来るのは「同時代」「同世代」であると。

それはまあ、その年代に即した表現者が、その年代を語ることが相応しい、なんて当たり前であり、何を今さらわかりきった話をくどくどと、と、鼻白むかもしれない。だが、「笑いの数を数える」ことは、いとうが前口上で述べている「(笑いを)言葉や数式にしてみたい」という行為でありつつも、個々の笑いに紐づく世代的なもの――<その笑いが降りそそいだ時代の空気>――を切り離して無機的には扱いきれない、という話になるんじゃないかな、という思いが立ち上がってくるのだ。

笑いを無機的でなく有機的に見据えると「日本の喜劇人」が選んだ捉え方を大いに含むことになる。だが、有機が過ぎると私観というフィルター(例えば好み、好き嫌いとか)が一方的に働き、そこにあった笑いの真価が歪んで捉えられてしまうことにもなりかねない。すると歴史の改竄にも繋がってしまう。

あああ、「笑いの数を数える」際の無機と有機のバランスやいかに・・・。どうしよう、ここまで書いておいて着地の仕方がわからない。ああだこうだとグダつきながら、この、ああだこうだゾーンにハマる至福にいざなってくれた「今夜、笑いの数を数えましょう」に感謝しておこう。本書は笑いをこねくり回して身悶える小理屈好きな人種の為の福音書だと。なんて書くとむしろ足を引っ張ることになるのかな。いや、構うものか。だって、「小林史観」だなんて、笑い史の歴史修正を迫られるような、のけぞらずにいられないワードがあるような本なんだから。

今夜、笑いの数を数えましょう
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