今日の夕刊によると、新元号が4月1日の午前11時半に発表されるということだ。どんな元号になるか、それはどうでもいいのだが、菅官房長官の談話として日経新聞に載っていた「新元号が広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざすものになるのが重要だ」という物言いが気になった。本気でそう思っているのだろうか。日本の中だけでしか通用しない年号を生活の中に根づかせたら、不便になる一方ではないのか。今の世界に、ほかにそんな国があるだろうか。
天皇家の中で代替わりごとに年号を変えるのなら意味があるかもしれないが、世界との交流が不可欠になっている現代の日本で、国内でしか通用しない年号を一般に普及したら、害はあっても益はない。最低でも西暦との併記を採用すべきだろう。幸いにして年号表記を強制している法律はないそうだから、運用の面で西暦との併用を推進して行って、行く行くは西暦に一本化するのがいいと思う。
平成の30年間を通して、私は書式で強制されないかぎりは平成の年号を使わずに過ごしてきた。だから新年号が何に決まろうと気にはしていない。年号はやがて、天皇の死後の呼び名としてだけ記憶されるようになるだろう。それでいいのだ。
記事
- 2019年03月29日 20:04