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『内田樹の市民講座』韓国語版序文

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『市民講座』韓国語版のための序文

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 本書出版のためにご尽力くださった皆さんにまず感謝を申し上げます。

 序文として読者の皆さんにも一言、この本の趣旨についてお話ししたいと思います。

 韓国語版のタイトルは『内田樹の市民講座』だそうですけれど、オリジナルタイトルは『内田樹の大市民講座』でした。ただの市民ではなく、「大市民」です。日本語にそんな言葉はありません。でも、「小市民」の対義語を考えると、それはやっぱり「大市民」じゃないかなと思って、AERAという週刊誌に隔週で連載していたコラムにそのタイトルをつけました。

 「大市民」というのはNHKで1966年に放送されたテレビドラマのタイトルです。僕がこのドラマを観たのは中学3年生のときでした。大昔のことなので、どんなプロットだったのかもう詳しくは思い出せませんが、日常的なルーティンに流されて、政治にも社会問題にもすっかり関心を失ってしまった主人公の平凡なサラリーマンが、ある出来事をきっかけにして、市民としての責任に目覚める・・・というようなストーリーだったと思います。

 「市民」はぼんやり暮らしていると、いつの間にか利己的で、視野の狭い「小市民」になってしまう。広々とした視野をもって社会をみつめ、必要があれば行動することをためらわない「大市民」になるためには、ある種のブレークスルーが必要だ。ドラマにこめられたそのメッセージは15歳の僕にも理解できました。

 このテレビドラマが放映された1966年、日本は高度成長期のまさにただ中にありました。その2年前に東京オリンピックが開催され、日本人は敗戦国からの奇跡的な回復を国際社会にアピールすることができました。ようやく先進国民としての自信を抱き始めた頃のことです。戦争が終わってから20年間、瓦礫から祖国を再建するために、それまで日本人はわき目もふらずに働き続けて来ました。それが60年代半ばになってようやく「小市民的」な享楽を自分に許すことができるようになった。たしかに、それくらいの「ごほうび」はあって当然だったと思います。敗戦から十数年は東京でもずいぶんひどい暮らしだったんですから。

 でも、人は「小市民的享楽」を自分に許すようになると、たちまちのうちに保守的になる。変化を望まず、「ステイタス・クオ」の永続を願うようになる。「大樹の陰」にいるのが安全で、「流れに棹さす」ことが賢い生き方であるように思えてくる。わずかな「手持ち」を後生大事に抱え込んで、「これを手放してなるものか」としがみつくようになる。豊かになったようでむしろ貧乏くさくなる。自由になったようでむしろ頑なになる。それが60年代なかばの日本人の実相だったと思います。「大市民」という新語はそういう「小成に甘んじる」生き方に対するひとつの批判だったと思います。

 それから半世紀経ちました。ずいぶん日本社会は変わったはずですけれど、広々とした視野でものごとを観察し、ことの適否を冷静に吟味し、必要があれば決然として行動することのできるような「大いなる市民」は今もやはりあたりを見渡してもなかなか見当たりません。

 でも、「大いなる市民」は市民社会には一定数存在しなければならないと僕は思います。すべての市民が「大いなる市民」である必要はありません。それは無理です。でも、できたら十五人に一人くらいの比率で「大市民」には存在して欲しい。

 僕の考える「大市民」の第一の条件は生活者であることです。

 ひとつところに腰を据えて暮らし、家族を持ち、勤労者として日々のつとめを果たし、日々のささやかな楽しみを味わいながら、その上で、政治について、経済について、文化について、宗教について、社会正義について・・・そういった個人では解決することのできないスケールの案件について、自分の思いを、自分の言葉で語ることのできる人です。

 「個人では解決できない」のは、それらが他の人々との協働を通じてしか成就し得ない事業だからです。他の市民たちと言葉を交わし、思いを伝え合い、知恵を出し合い、力を合わせなければ、できない仕事があります。その仕事にかかわることのできる人、それが僕の考える「大市民」です。

 では、どういう人が「他の人々と協働する」ことができるのか。

 それは自分の頭で考え、自分の言葉で語ることの人間です。そういう人だけが、他者と共同的に生きることができる。

 いささかわかりにくい話になりますけれど、誰かの考えを真似て、誰かの言葉を借りて語る人は、他者と共同的に生きることはできません。

 誰かの考えを真似し、誰かの言葉を借りて語る人ばかりの集団では、当然ながら、いずれみんなが同じような考えを同じような言葉で語るようになります。たしかにそこに同質性の高い、純度の高い共同体が立ち上がっているように見えます。けれども、そのような集団は二重の意味できびしいリスクを負うことになる。

 一つは、集団として脆いということです。

 みんな同じような見方でしかものを見ないわけですから、「普通の人が気がつかないような危機的徴候」には誰も気がつかない。仮に、「あ、ここにこんな危険な徴候がある・・・」と気がついても、自分より先に「それと同じこと」を指摘している人がいない限り、それを指摘すると「誰も言っていないことを言う人間」だということになる。それはその集団では成員欠格条件に当たる。だから、「このまま行ったら、とんでもない事態になる」とわかっていても、誰かが意を決して、集団から放り出されるリスク覚悟で言い出すまで、お互いの口元を見つめ合いながら、みんな黙っている。今の日本社会を見ると、それがどれくらい危険なことかわかるはずです。

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