10年ほど前には硫黄島に行かせてもらい、以来一度は行きたいと思っていたところ、2015年に天皇陛下も訪問され、ますます行きたい場所になっていたパラオ。
今回念願がかない訪問してきました。
訪問の目的は、
・大東亜戦争の激戦地を訪問する
・かつて日本領だった国や人々がどうなっているかを知る
・中国の影響力がどこまで広がっているかを知る
の3つでした。
以下、順に報告していきます。
大東亜戦争の激戦地 ペリリュー島
皆さんはぺリリュー島の戦いについてはご存知でしょうか。
私は小林よりのりさんの本でこの戦いのことを知り、一度現地に行ってみたいと思っていました。
ぺリリュー島の戦いを知らない方のためにイシキカイカク大学でお世話になっている池田整治先生のブログを引用させて頂きます。
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サクラ・サクラ
このストーリを知っていただいた上で私のペリリュー島訪問blogをお読みください。
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https://ameblo.jp/jinkamiya/entry-12445372026.html
かつての日本領 パラオの今
2つ目の課題については、まずシニアシチズンセンターでお年寄りの方々のお話を聞いてきました。
このセンターは、80歳以上のお年寄りが毎日集まって、お話やゲーム、ランチを楽しむところです。
我々のメインのインタビューに応じてくださったのは、88歳のニナさんと81歳のフユコさんでした。
「フユコ」というと日本人のようですが、彼女は正真正銘の日本人です。
大東亜戦争で、アメリカの来襲が近づいた時に、日本人がパラオの方に子供を預けてそのままパラオに残された子供が、何人もいらっしゃったそうです。
「フユコ」さんはまさにそのお一人。
戦後、ご兄弟が探しに来て、交流を持たれたそうですが、すでに生活基盤はパラオにあり、また日本語や日本の習慣も十分に身についていないため、パラオで暮らすことを決められたとのことでした。
「日本で暮らしたい」という気持ちも強くお持ちだったので、せつない気持ちになりました。
お二人に聞くと戦前のパラオでは5年生まで日本語などの教育を受けていたそうです。
印象に残っているのは「ルールが厳しかったこと」だそうです。
ルールを守らないと子供でも罰がある。
だから、大人などもお酒などを飲まず、秩序を守って生活していたので、今より良かったといいます。
何より皆さんが重んじていたのは、それぞれが「責任感」をもって生きることだそうです。
「責任感」ということを教えてもらったのが一番役に立ち、子供たちにもそれを教えてきたとおしゃっていました。
戦後のアメリカの教育では、「個人の自由」は教えてもこの「責任感」を教えない。
日本の教育がよかったと言っていただいたことに、日本人として誇りを感じました。
また、日本人と交流があったのかと聞くと、日本人とパラオ人に直接の交流はそれほどなかったとのこと。
一線が引かれていたと感じておられるようでした。
その点は今の日本人の方がフレンドリーだとも。
しかし、同じ日本人でも沖縄出身者や朝鮮出身者は少し差別があり、その方々の方が現地人と交流があったと話されていました。
さらに、聞いていくと一般の兵隊は優しい人が多かったといいます。
しかし、中には厳しい隊長もいて、捕虜になったアメリカ人などを殺していたという話も聞きました。
また、やせ衰えた日本兵に食べ物をもっていったら、家族の写真を見ながら泣いていたそうです。
そして「あなた方の食べ物がなくなるから」といって食事を受け取らない人もいたと。
一方、現地の人から食料を奪う人もいないわけではなかったとおしゃってました。
ひもじさが人を悪い人にするから仕方がないというコメントもありました。
戦後やってきたアメリカ人と比べると、日本人が好きだと言ってくれます。
なぜ日本人が好きかというと、日本時代の先生がよかったそうです。
「ちゃんと自立できる教育をしてくれたのが一番よかった。
今の人はのんびりした人も多く、暗算などもできないが、当時はみんなが九九を言えて計算もできた。」
とおしゃってました。
今は大学などの教育機関も、就職先もなく若者がどんどん国を出ていく。
だから人口も減っていく傾向だそうです。
それでも食べ物はあるから、お金はなくても暮らしていける島国だとおしゃっていました。
センターを出たあとはお二人を招いて、お食事をしました。
私はフユコさんの隣に座っていろいろお話しましたが、戦後の生活も相応大変だったそうです。
今は物資的にも豊かになって暮らしやすいですか、と聞くと、6人の家族で暮らしているが、楽しいことはあんまりないとおしゃってました。
結局、家族もみんな忙しくてテレビ見るのが家での時間の過ごし方だそうです。
センターなどで、友達とお話をしたり花札などのゲームをするのは楽しいとのこと。
そこは日本の現状と変わりがないのだと感じました。
教育については、教育省のソアラブライト教育大臣とパラオ高校の校長からお話を聞いてきました。
パラオの学校の生徒数は小学校から高校までいれても1700人しかいません。
教育は1945年に日本が敗れてからは、アメリカ式になり、教育内容もすっかりアメリカナイズされてしまい、パラオ語は必修ではあるものの若者たちはパラオ語が話せなくなっているそうです。
また、一番の問題は国に大学がないので、優秀な学生たちは、協定を結んでいるアメリカにほとんど行ってしまい、帰ってこなくなるそうです。
政府は対策として、帰国を条件とした奨学金や帰国者向けの住宅手配などを考えているがどれだけ効果があるかわからないとのこと。
パラオ高校の校長先生は、子供たちに
・コミュニケーション能力
・思考力
・コミュニティーへの貢献の気持ち
とはぐくみたいとおしゃっていました。
1960年代から高校で日本語の教育を行っていると聞いたので、どこくらいのレベルを目指していますか?と質問すると、観光業で日本人と会話できるくらいの能力だそうです。
となるとそんなに高い日本語レベルではないということです。
パラオの若者もデスクワークを好むらしく、現業の仕事はパキスタン人とフィリピン人にやらせているそうです。
校長先生は、パラオという国をパラオ人だけで運営できるようにするのが自分の夢だとおしゃってました。
遠い夢かもしれないが一歩ずつ進んでいきたいと。
また、同世代のパラオ人と話をさせてもらうと、パラオが一番力を入れているのは環境政策だといいます。
商業用の漁業などは、禁止の方向で進めているそうです。
海に囲まれた国で漁業をやめるなんて、、、、
環境保護は分かりますが、少し行き過ぎているようにも感じました。
そしてパラオの主要な職業は公務員だそうです。
2万人の国なのに16の州に別れ、州ごとに議会もあるので、政治家と公務員だらけだそうです。
なぜ16も州があるかというと、旧部族ごとに王族がいてそれが16家あるからだとか。
これからは民間企業を育てていかないといけないとのことでしたが、農地はあっても若者が農業などを避けるので、農業はもっぱらフィリピン人やパキスタン人にやってもらうそうで、彼らの方が良く働くとおしゃってました。
パラオの食料自給率は極端に低く、船が3日来なくなると生鮮食品はなくなってしまうそうです。