
5月に皇后陛下になられる雅子妃殿下。皇后になられることへのご覚悟もあり、ご体調は近年、劇的に回復しているが、ここまでの道のりは平坦ではなかった。ジャーナリスト・友納尚子氏がレポートする。
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雅子妃が適応障害と診断されたのは2004年のこと。だが、ご体調の変化から病気かもしれないとご自分で訴えられたのは、それよりも遡る、2001年に愛子内親王殿下が生まれた後だった。
愛子さまご誕生の前から、お世継ぎについての重圧で雅子妃は疲弊していた。
宮内庁の幹部の中には「雅子妃は外国に行きたがってばかりで、お世継ぎ問題を真剣に考えていない」と歪んだ見方をする人が多かったのだ。実際には、両殿下はお子さまの誕生を待ち望んでおられたが、恵まれなかった。18年前のことだが、子どもができるのは当たり前で、できないのは女性が悪いという時代錯誤な見方が残っていた。
結婚から8年が経ち、ようやく世継ぎ誕生となったのだが、早々に第2子の男子が期待された。宮内庁としては皇位継承問題を考えると、手をこまねいているわけにもいかなかったのだろうか、その苛立ちは雅子妃に向け続けられた。
雅子妃は身も心も疲れ切っていた。そしてご自分の存在を見失われて、ご体調は悪化の一途をたどったのだ。にもかかわらず、責任逃れから周囲はそれに理解を示さなかった。宮内庁のある職員は「雅子妃は体調が悪いと訴えて、やりがいがないと思われている国内公務に消極的なのだろう」と漏らすほどだった。
こうした事情から、皇太子はやむなく2004年5月に「人格否定発言」をご発言、多くの波紋を呼んだ。宮内庁と東宮家の間は隔たりが大きくなったようにも見えたが、この発言によって、ようやく雅子妃に精神科の専門医がついたのだ。同年7月に、ご病気は適応障害と正式に発表されたが、雅子妃がご病気になってから、3年以上もの歳月が経過していた。
「早期治療ができなかったことは、雅子妃のご回復までを長引かせている要因の一つかもしれません」と東宮関係者が語るように、今でも悔やまれる対応だった。
精神疾患には、治療をサポートする周囲の環境が絶対に必要だった。皇太子は、ご病名発表後も宮内庁からの理解が完全とは言えない中、たとえ“雅子さまワールド”と揶揄されようとも、雅子妃を支え続けてこられた。愛子さまの成長なさる存在も大きかったという。
こうして、雅子妃はご家族と東宮職に見守られて、その時にできる公務を懸命に続けてこられた。ご体調によっては、急遽お出ましになれなかったり、反対にその日に出られることもあったりしたことから“ドタキャン”“ドタ出”などと皮肉な表現で報道されることもあったが、ご公務の回数よりも継続を目標に据えて歩んでこられた。
今でもご療養中の身であることに変わりないが、そのご努力は実を結びつつある。皇太子妃としての思いは確実に国民に届いている。
●とものう・なおこ/1961年生まれ。新聞、雑誌記者を経て2004年に独立、フリージャーナリストに。著書に『ザ・プリンセス 雅子妃物語』(文藝春秋)などがある。
※SAPIO2019年4月号