- 2019年03月04日 16:53
〈多文化〉韓国を生きる 難民・イスラーム・フェミニズム - 田浪亜央江 / 中東地域研究・パレスチナ文化研究
2/42.梨泰院(イテウォン)
私が済州島を訪問した直後の10月16日、韓国政府は島にいるイエメン人のうち339人に対し、人道ビザを発給すると発表した。難民としての認定は、当初ゼロだった。最終的には2人だけが難民認定を受け、412人が人道ビザ、56人はそれさえも認められなかったが、裁判で争う余地は残された。ともかくこれで韓国本土に移動することはできるようになった。とはいえ、島を離れることが本当に良いことなのか。世界各地からの外国人労働者のあふれる都市での生活は、過酷なものに違いない。
人道ビザを得たラムズィーは済州から木浦まで船で出て、そこから4時間バスで移動し、11月3日にソウルに着いた。一年前からソウルにいるという友人が頼りだった。翌4日の夜、彼が身を寄せた梨泰院のゲストハウスの近くで再会した。経営者はパキスタン人、一部屋に5人の男が寝泊まりしているとのことで、当然ながら私が中に入れてもらうことはできなかった。ソウルの寒さに参っている様子で、着いてからどこにも出ず、ゲストハウスでじっとしていたという。
梨泰院。龍山(ヨンサン)の米軍基地の門前町として発展したこの町には外国人客を意識したバーやクラブ、服飾雑貨店が並ぶ。1969年5月、湾岸諸国との友好関係に経済上の利益を認識した朴正煕政権は、特別令により韓国ムスリム連盟に対しモスク建設用の土地を与えた。現在モスクの周辺には、ハラールフードのレストランなどムスリム向けの店が並び建ち、ムスリムのコミュニティを形成している。前回この地域を訪れたのは2013年だが、当時に比べわずか五年で「アラブ度」がぐっと高まったのに驚く。地下鉄の出口を抜けて最初に飛び込んできたのはアラビア語の会話だった。その若者2人を追いかけて尋ねるとUAEからの観光客で、モスクでの礼拝を済ませて来たところだという。
丘陵部のもっとも高い場所に堂々と聳え立つ梨泰院モスクの印象は、天気によって大きく変わる。ラムズィーと再会した翌日の晴れた真昼に来てみると、マレーシアからの団体客がモスクの敷地内でそれぞれにのんびりと時間を過ごしていた。
モスクの裏手で、携帯電話ごしにアラビア語でまくしたてる人物がいる。お金に関するちょっとしたトラブルのようだ。電話を終えるのを待って話を聞くと、半年前にエジプトからやって来たという。毎日のように誰かが裁判も受けられずに殺されている今のエジプトには自由がなく、生きていけない。エジプトには妻と3人の子どもを残しているという。
「妻子を置いて出てくるという選択は難しくなかった?」――父親が投獄されたり拷問を受けたりする状況で、子どもが生きていくのが正しいことだろうか? これが彼、ムハンマドの答えだった。人間は鳥と同じだ、自由を求め、自由のある方向におのずから飛んでゆくものなんだ。私は何よりも自由を愛する! 私が広島から来たと伝えると、ヒロシマに住んでいるというエジプト人の名前を矢継ぎ早に挙げる。フェイスブックで友だちなんだ。いや、ヒロシマではない、トクシマだ。だがヒロシマにも友だちはいる…
ムハンマドは1本の足と2本の杖で立っていた。20年前、交通事故で片足を失ったという。松葉杖に長身痩躯を委ね、白い長衣をまとった彼は、遠目にはすでに鳥に見えるのではないか。その身体でエジプトから8500キロ、いったいどんな経緯をたどってこのモスクに辿り着いたのだろうか。彼はモスクの裏手の木陰に自分のスーツケースを広げ、そこからコップやタオルを出し入れしていた。視線を移すとモスクの外回廊の上に段ボールと寝袋が敷かれている。何と彼はこのモスクの敷地内で寝泊まりしているのだった。もっと寒くなったらさすがにこれではやって行けないだろう。だがムハンマドは、この先はアッラーだけがご存知だと返すばかりだ。
韓国ムスリム協会で布教や広報活動を担当するユン氏に会った。彼のムスリム名もムハンマドだ。「このモスクの周辺に、イエメンはじめ、ムスリムの難民が集まっているようですね。モスクとして積極的に彼らを支援するということは考えていますか?」――いいえ。彼らは自力で何とかやっていくしかないでしょう。私はイスラームを学ぶために2年間シカゴで暮らしました。アメリカに移民した人々は自助努力のなかで、首尾よく成功した者もいれば、そうでない者もいる。それが生存競争というものです。
彼の言葉はシビアだが、少なくとも管理や排除の思想とは無縁だ。〈鳥〉のムハンマドのような人物が、他の人々と混じり、とくに悲壮感を持たずに日々を過ごせる余地がこの地域にはある。東京にそんな場所はあるだろうか? 何年か前にこの街にやって来て、なかにはすでに去った者もおり、なかには今日まで居続け、さらに商売を広げている人々がいる。たがいに適度な距離をたもち、ギブ・アンド・テイクの関係で共存する。
ここでいくつかの店に足を運びながら、梨泰院のモスク周辺エリアを点描してみよう。
スマホや関連機材が所狭しと陳列された携帯電話ショップ。オーナーはパキスタン人で、店にいるのはその弟だ。9年前にこの店をオープンした。店主の妻もパキスタン人だが、今は韓国の国籍を持っているという。
小さなテーブルが3つだけ置かれ、ウズベキスタン人の店員が厨房に一人立つ店。出しているのはレバノン風とウズベキスタン風を折衷したサンドウィッチだ。15年ほど前に店をオープンしたレバノン人が、現在のウズベキスタン人オーナーに店を売った。入ってみると若者2人が座っており、聞けばイエメン人だ。済州島から移動してきた? いや違う、一方の若者は学生で、ソウルの国民大学でマネジメントを学んでいる。ソウルでイエメン人の学生は自分一人だと彼は言う。相方は彼を訪ねて韓国に来た旅行者だ。イエメン人をすべて難民と決めてかかっているこちらの頭を慌てて切り替えながら、私もサンドウィッチを注文する。
メッカ巡礼を請け負う旅行代理店。これまで男の店員ばかりだったが、ここではヒジャーブで髪を覆ったカザフスタン人の若い店員がパソコンを前にして座っている。彼女がわざわざ電話で呼び出してくれた女性オーナーはインドネシア人だ。話し始めてすぐ、彼女が相当のやり手であることを感じる。顧客から頻繁にかかってくる電話に韓国語で応対する様子は感じがよく、そつがない。すぐ近くにもう一つ店を持ち、合わせて毎年300人をメッカへの巡礼に送り出している。
そしていま私と一緒に歩いているのは、南アフリカから来た黒人のテオだ。2018年1月に国を出て来たから、そろそろ一年になる。タイ、マレーシア、インドネシアを経て、11月20日に韓国に着いたという。何とか英語を教える仕事を見付けたいと、梨泰院にある公共施設「地球村センター」でパソコンに向かっていた。英語が堪能で押しが強く、お金をくれ、と出会った直後の私に堂々と要求する。大学の教員だって? お金あるんだろ。俺も修士を途中までやって、国では講師をしていた。講義のなかで政治的な発言をしたから、南アフリカで暮らしにくくなった。だが難民申請をしても、命の危険があるわけではないという理由で却下されるだろう。難民資格はいらない。欲しいのは仕事だ。
ソウルにある難民人権センターの場所と電話番号を伝え、チャージ済みの交通カードを渡して地下鉄駅の前でテオと別れた矢先、またアラビア語の会話が飛び込んでくる。ソウルに5年住み材木加工の工場で働いているというエジプト人の二人組は、ハラールフードの食事をしに梨泰院に来たところだ。ソウルの生活? すべてがいいわけではないさ。でもエジプトには仕事がない。
モスクに続く坂道を再び上る。以前にも来たことのあるイスラーム関係の専門書店だ。カシミール出身の店主はもともと宝石商で、大きな利益を手にしたあと、残りの人生を韓国でのイスラーム教育と布教に捧げようと決め、2001年にこの店を開いた。当時この辺りは店がぽつりぽつりとあるだけで、人が見向きもしないエリアだった。通りの向こうは米兵相手のバーやクラブ、売春宿街。
こんな地域にモスクがあるなんて、韓国のように西欧文化を受け入れている国ならではだ。だがこれも悪くない、逆にイスラーム文化のありかたが際立つのだから。…あなたはムスリマ? 違う? でもアラビア語ができて、イスラームに関する知識があるのだから、ムスリマになるのは難しいことではない。服装はそれでいい。あとはその首まわりのスカーフを頭の上に付け替えさえすれば。
そろそろ暇乞いをする頃合いかなと感じる。イスラームの信仰よりも、ムスリムのコミュニティや活動ぶりを知ることが面白いと思っているとは正直に伝えにくい。ムスリムコミュニティを本当に理解したいならイスラームに改宗することが一番だが、わが身の、この世俗化しきった身体性。せめてムスリムと非ムスリムのあいだのこの決定的な違いをなるべく露呈させたくないとそっと願いながら、暇乞いのタイミングをどんどん逃してゆく。



