学校で教わった日記も「他人が読むメディア」だった
そういえば、学校で習ったばかりの日記も、実は「他人が読むメディア」ではなかったか。
小学生の宿題には、「日記を書いてきなさい」というものがある。私が最初に書いた日記も、この「日記を書いてきなさい」だったように思う。
「日記を書く」宿題は、先生が読むという前提で書かれている。
自分自身の過去はもう思い出せないが、子どもが宿題として日記を書いていた頃に、それがよくわかった。
宿題として提出する日記に、子どもはありのままの気持ちや出来事を書いていなかった。先生に叱られないように、あわよくば先生から花丸をもらえるように、子どもなりにテーマや書き方を考えていたし、そういうことが思い浮かばないと「日記に書くことがない」ことに困っていた。
先生が読むという前提で日記を習っていたということは、私も、私の子どもも、日記というメディアを「他人が読むメディア」としてまずフォーマットされた、ということだ。実は、現代人にとっての日記とは第一に「他人が読むもの」であり、「自分が読むもの」という特徴は後から付け加わったものではなかったか。
「現代人訓練装置」としての日記
学校には、子どもという自然に近い存在を、現代人という近代的主体へと訓練していく場としての性質がある。授業や運動会や時間割によって子どもは訓練され、近代的主体としてふさわしい習慣や規律や時間感覚を身に付けていくし、そのように社会から期待されてもいる。
もし、近代的主体としてふさわしい習慣や規律や時間感覚を身に付けられない子どもや、身に付けられそうにない子どもは、「問題」があるとみなされ「事例化」していく。が、それはさておき。
この視点で「日記を書きなさい」という宿題について思い出してみる。私達は「他人が読むもの」として日記を教わり、それを後になって「自分が読むもの」だと思い込んで書き綴る。このプロセスをとおして、日記は、自分自身の内面を他人が読めるようなフォーマットへと言語変換する訓練として働いている*1。
日記が、その習得段階において「他人が読むもの」としてまずインストールされる以上、良い日記とは、自分で読み返せるだけでなく他人が読むにも適した性質を持っていてもおかしくはない。ウェブサイト黎明期やブログ黎明期において、あちこちに書き綴られた「日記」をネットサーフィンして楽しめたのも、それらの「日記」が他人が読めるようなフォーマットで書かれていたおかげなのだろう。
でもって、近代的主体にとっての良き内省とは、言語化され、他人が解釈可能な性質のものでなければならないのかもしれない。
だとしたら、本当に「自分に向かって日記を書く」とはどういうことなのか?
範疇的に考えるなら、「他人が読むもの」というフォーマットを上手に使って「自分が読むもの」を書き残せれば、それは「よくできた日記」ということになるだろう。近代的主体である限りにおいて、そのフォーマットを逸脱する必要は無い。そのフォーマットのなかで内省し、そのフォーマットのなかで語り、そのフォーマットのなかでコミュニケーションしても困ることは何もあるまい。
ただもし、自分独自のフォーマットで「自分が読むもの」を書けたとしたら。
私にはそんなことはできないし、大抵の人も同じだろうけれども、フォーマットの殻を破れる剛の者は、破ってみせて欲しい。あるいは詩人の言葉ならば。きっとそれは、近代的主体としての諸フォーマットに慣れきった私には解読しづらいだろうけれども、世の中にはそういう人がいたっていいし、いたほうがいいと思う。
日記の話をしていたつもりが変な着地点に辿り着いたけれども、まあこれも「はてなダイアリー」出身のブログなので、どうかご容赦を。
*1:そもそも、言語変換するということ自体、他人が読めるような共通のフォーマットへと思考を導く訓練ではあるけれども