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コートはどこで脱ぐか

ちょっと前にマナーに関する記事を別のところで書いたのだが、そのとき落とした内容をここで少々。

「マナー違反」はなぜ人の心を惹きつけるのか 優越感やコンプレックスを刺激する恐怖マーケティング

就活関連のサイトで「マナー」としてよく出てくる「コートは会社の入り口に入る前に脱げ」というやつ。たとえばこれ。

就活で役立つ! コートのマナーと選び方・たたみ方
マイナビ2018/01/23
正解は「入り口の手前」です。例えば志望する会社の社内で説明会がある場合は、その会社の入り口の手前で脱ぎます。大きな会場の場合も、会場入り口の手前で脱いでおきましょう。コートを着たまま会社に入ってしまったり、会場に入ってしまうのはNGです。

就活サイトの記事だから、就活中の学生などはバイブルのように読みふけるのだろう。なんとも罪作りではある。

このやり方は個人宅を訪問するときのマナーとされていたものを転用したものではないかと思う。いつごろからあったものかは知らないが、少なくとも昭和初期には以下のような新聞記事が出ている。繰り返すが個人宅訪問の際のマナーであって、会社を訪問するときのものではない。ましてや大会場で開かれる会社説明会を想定したものではない。

朝日新聞1936年(昭和11年) 4月 28日
着るか脱ぐか? 半コートで他家訪問の時
・・私共の考へでは、コートは半コートに限らず長いコートに限らず玄関で脱いで、それからお座敷に上るのがよいと思ひます。といふのは、コートは外出着ですから、お召しになつたまゝお座敷に上るのは失禮になります。ただ昔よく流行つて、今でもお年寄りの方が来て居られる道行きといふのがありますが、あれならお召しになつたまゝ座敷に通つても差支へないと思ひます。(大妻技藝學校熊田みゆき)

余談だが大妻技藝學校は大妻女子大学(沿革からより正確にいえば大妻中学高等学校にあたるだろうか)の前身である。創立者大妻コタカ氏の旧姓は熊田なのだが上掲記事の熊田みゆき氏は一族の方だろうか?

それはさておき、戦後もこのマナーは受け継がれたようだ。下の記事をみると、洋装の場合には脱がなくていいと書いてあるから、これが基本的には和服のマナーであることが伺える。にもかかわらず、和服のマナーを念頭に置いて、相手の気分を害すおそれのあるときは脱いでから入れ、といっている。つまりこれは、和服のマナーを洋服に「輸入」したわけだ。しつこいようだが個人宅訪問の際のマナーであって会社を訪問するときのものではない。ついでにいえば、女性向けのマナーであって、男性向けの記述ではない。

朝日新聞1977年(昭和52年) 12月 31日
コートはどうする?訪問のエチケット
お正月、知人宅など訪れたとき、和服のコート、ショール、手袋など防寒着は、脱いでから、玄関の呼び鈴を押すのに気をつけましょう。
洋装の場合は、女性はそれらを着たままでよいとされていますが「脱いだ方が相手の気分がよい」という場合が多いので、そのへんは臨機応変にふるまうのがエチケットです。

しかしここで重要な変化が1つある。戦前の記事では「玄関で脱いで」とあるのが、戦後の記事では玄関の外で「脱いでから玄関の呼び鈴を押す」になっているのだ。このあたりは記事によって異なるので一概にはいえない(たとえば1969年1月25日付の読売新聞記事では「玄関で脱ぐ」とある)が、戦後の間にじわじわと変化していったのかもしれない。冒頭の記事は「玄関の外」ルールを企業訪問にあてはめたものといえる。

個人的には「玄関先で脱ぐ」方が適切かと思う。理由はいくつかある。屋外で脱ぐと寒いというのは自分の都合なのでまあおいとくとして、そもそも家に上るのは家人の許しがあってからのことであって、相手の都合も聞かず先に脱いでおくのは失礼であること(読売新聞1969年1月25日付記事にそうした記述がある)、コートが雨や雪で濡れていた場合それらを室内に持ち込むと室内を汚してしまうこと(読売新聞1957年6月18日付記事にそうした記述がある)、また屋外でコートを脱ごうとすると手荷物をいったん地面に置かなければならず、それを室内に持ち込むと室内を汚してしまうことなどだ(これは個人的にいわれた経験がある)。

では会社を訪ねたときはどうなのか。新聞記事でみる限り、昭和の間はそれらしい記事はなかった。いい換えれば、それらはわざわざ書くほど重要なものではなかったということかもしれない。とはいえ、私が就職した昭和の末期には、他社を訪問した際は受付の前(屋外ではない)でコートを脱ぐよう教えられた(ちゃんとした企業ならたいてい荷物が置ける場所が作ってある)から、その意味では「玄関先」ルールの応用といえようか。ともあれマナーとされるものはそれなりにあった。ただ、コートに関するマナーを取り上げた新聞記事は概ね2000年以降だ。ちなみにだが「就活」ということばが朝日新聞に初めて登場したのは1999年であって、その時期にほぼ近い。

就活前の「指南講座」続々 教えるのはノウハウより働く意識
朝日新聞2005年01月31日
「大学の就職ガイダンスでは、具体的には分からないことだらけ。先生の研究室を訪ねるときはコートを脱いでノックするなど、講座後は意識して行動するようになった」
[どうするの?]訪問先でコートはいつ脱ぐ?
読売新聞2010年2月9日
訪問先ではコートについたほこりなどの汚れを持ち込まないようにするため、玄関前で脱ぎ、それから呼び鈴を鳴らすのが礼儀です。すぐに立ち去るならばコートを着たまま呼び鈴を鳴らしても失礼には当たりません。会社訪問では、受付で名前を告げる前に脱ぎます。

繰り返すが、現在に至るまで、少なくとも新聞記事でビジネスマナーとしてのコートの取扱に触れた記事は多くはない。要するに「どうでもいいこと」に属するのだと思う。実際のビジネス上の訪問などならともかく、少なくとも会社説明会などで「大きな会場の場合も、会場入り口の手前で脱いでおきましょう」はやりすぎではないか。大きな会場に入ってくる就活生の1人1人をいちいちチェックしているとも思えない。もっといえば、ぞろぞろやってくる学生たちが入り口付近でいっせいにコートを脱ぎ始めたらそれだけで入り口付近が大混雑になるではないか。そんな迷惑をかける方がよほどマナー違反だろう。会社説明会なら、席に案内して、そこで脱いでもらう方がよほどスムーズだ。

マナーは一方だけに求められるものではない、と考えれば、そもそも就活生に「どこでコートを脱ぐか」などと迷わせるような企業こそ、就活生を迎える準備が不十分であろう。別に昨今の人材難だとかそういう話を抜きにしても、いまどき、会社説明会や就活イベントに来る就活生の大半は、実際にはその会社には就職しない。むしろ彼らは将来の顧客候補なのだ。しかも何かあればSNSや就活サイトの書き込みを通じてよい評価も悪い評価も一気に広まる。だとすれば、「いつコートを脱ぐか」のようなどうでもいい(必要ならすぐに覚えられる)マナーの有無であれこれいうより、いかに彼らによい印象を与えるかの方が、企業にとって重要ではないか。コートを着たまま入ってくる学生がいたら、人事担当者がまず考えるべきは「あいつはマナーを知らない」ではなく「会場の空調は大丈夫か」や「あの学生は体調が悪いのだろうか」だろう。

というわけで、「コートはどこで脱ぐか」は、少なくとも会社説明会など就活の場では、「どうでもいいが、もし何か特定の行動を求めるなら企業があらかじめそれを示すべき」というのが私の意見だ。就活生の皆さんがどのようにするかは個人の自由だが、つまらない理由で彼らを非難したり揶揄したりするのはやめてもらいたい。

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